アートとゴミの境界線 3  (温厚なる紳士淑女の選ばないタイトル)

 

走辺憲史

 

(アートとゴミについて書いております。 今回すこし軸をずらします。)

 

              美術雑誌等に時々頭の痛くなるような記事が載っている。美術の評論を専門に書く人達なのだろうか、難しい言葉を多量に使い,意味は不明というやつだ。フランスの評論の日本語訳のように、やたらに吐き出される言葉,論の複雑さ、五回読んでも,「何をいっているのか」想像出来ないものだ。

              それに比べて,司馬遼太郎の美術評論はわかりやすい。 わかってもらいたいということが前提にある。司馬遼太郎は若い頃,新聞記者として展覧会回りをしていたという。その経験の後,新聞社の記者としてレポートを書くことから解放された後,自分の目で,素直に作品がみられるようになったと書いている。司馬遼太郎の評論のなかに「八大山人」というのがある。中国の明代に絵を描いていた人である。彼の魚の絵を評論している。広い渺々とした余白の中に,一匹の魚が泳いでいる。すてきではないかという評論である。この気韻はいったい何なのか,と述べている。勿論、これは司馬遼太郎の個人としての見解である。観察者によれば、もっと大きな鯉でも描けばいいのに,ちいさな魚ね、、、と思う人もいるだろう。紙に合わないほど、ちいさな魚ではないかという人もいるだろう。つまり余白に何かを感じ取るのか、それともスペースの無駄ととるのかの違いである。

           この辺りから,ミニマルアートについて書く。ミニマルとはミニマムと同じ、最小といった意味だ。それで最小のアートとはいったいどういうことか。まず描くイメージ量の最小という事を考えてみる。ルーブル美術館の大ギャラリーにナポレオンの戴冠式の絵がある。これはジャック ルイ ダヴィッドの、縦6メートル,横十メートルという大作で、そのなかにびっしりと人,衣装,大理石の壁,柱まで、フェルトはフェルト,絹は絹と限りなく絢爛豪華に描きあげてある。油絵の極致のようなもので「すごーい」がテーマである。こんな大スペクタクルを見ると、ナポレオンさんが大満足するだろうということはよくわかる。日本によくある展覧会で、何々画伯の花瓶にはいったバラの絵(応接間ペインテイング)しかみたことない人は、「なんとまあ」と気が遠くなる。こんな作品はいわば、ミニマムアートの逆だ。マキシマムアートとでもいうべきか。盛り上げに盛り上げた、これ以上盛り上げようのない。 ひと隅の 隙間 もゆるさない、びっしりアートだ。よくやった,よくやった。ほめてとらすぞ,というやつだ。

              製作という面で八大山人とダヴィッドを比べると,その差ははげしい。八大さんは紙一枚に、墨で小魚を描いただけ。紙の多くはただの地色の白。つまり,昔から、ミニマムアートという言葉がなかっただけで,それに該当する作品はあったのだ。八大さん以外にも、ミニマムを自分の気質にあうものとして、多くの画家がそれを選んで来た。特に東洋では、うまいへたという事を、些細なものとしてみるという伝統もあった。うまくても,品のないものを蔑んで来た。へたくそでも、気品のあるものを、尊んできた。そして絵描き達は、ダヴィッドのようにてんこもりすると、「品」の面で失敗する事が多いのを本能的に知っていた。

              近代のミニマムアートは名前こそ新しくても,昔から人々のやって来た事だった。イメージ量を押さえても絵は成立したのだ。多くの場合,気品もおまけとして、つてきた。又,年齢的なものとして、大人はロックンロールの騒がしさより、もっと別のものを求めるという傾向もあった。「静」の価値ともいえる。そして次の項目としては、絵を成り立たせる、技、あるいは技の結果,別言すると「美」そのものだ。絵においての「美」は何なのかしらないが、それをどのくらい入れれば、絵になるのかといったような、初歩的な質問だ。少しでもいいのか,それとも,平均的な盛りつけ量があるのか。どちらにしろ、けっこうおおい方が喜ばれるのか。これは〔味の素〕あるいはそれの類似品を、どのくらい入れても許されるのかと言う事と似通っている)これはどのくらい盛り上げれば,普通のラーメンで、ここまで盛ると、もう人の食い物ではないといったような指針である。「美」にもそれがあるのではないか。

              「美」というのが言葉として不足/不適当であるとしたら、「性質」でもよい。アートを成り立たせる,なんらかの「性質」だ。その性質も実験として,(入れないで)どんどこ,どんどこ引いていってみたら,なにが残るのか。引いて引いて,もっと,引いても、まだなにか残るかもしれないではないか。そういった実験もミニマルアートに含まれていた。

              イメージの少量化、そして,技量,性質の少量化、そんな事を話題としている。その次は画面の少量化だろう。皿の中身をあまり盛らない事にしたのなら、皿も小さくてもいいのと違うかということだ。つまり,米粒に仏様を三人描くのが、ミニマルアートかということになりそうだが、それはなかった。画面は小から離れて、どちらかというと巨大になっていった。理由は簡単だ。ミニマルアートもアートだから、インパクトは保持したかったのだ。意思を伝達する力の問題だ。これは昔の絵でつかわれた「余白」の効果と同じだ。八大さんの魚の絵を、紙の効率を考えて,中の魚だけ、はがき大に切り取ったとすると,もう別のものになってしまう。渺々とした池,あるいは大河が消える事になる。物としてのミニマルアートが実際に小さくなる事はなかった。

 

              ここまで,ミニマルアートを生産という面から見て来た。イメージ量,技量の少量化だ。そして,アートをアートとなす「性質」の少量化だ。それらが乗る画面の少量化は、はずしたとした。それはなかったとした。次には「アート」の生産という話しではなく、「アート」するという心はどうなったのか。それは少量化したのか,するべきだったのか。ミニマルアートというのなら、そのあたりも減量していってもよいはずだ。「アート」する心というのはどの辺りから、発生して,どの辺りを満足させる所行かしらないが、「それも減量してみよう」とするのだ。

              これは結構めんどうな問題である。つまり大欲を持って,アートと接するのか、それが正しいのか.それのみが正しいのか。あるいは小欲でも結構なのか。消え入らむばかりの生命力で持って、アートが出来るのか。そういった製作の意思の少量化に対する疑問だ。元々,なんで,そんな事(アート)に参加したがるか、という疑問でもある。原始人にとって生命力は恥ずべきものではなく,また反省材料にすべきものでもなかった。しかし,近代人はそうもいかない。我々は,色々な意味で,非常に薄められた生命力で生きている。人は今、恥一つでも死ぬ事が出来るし、なにやら具合がよろしくないというだけで自殺することもできる。

              そういった状況を基礎として考えると,薄き生命力,あるいは薄き意思と、アートの関連につき、なんらかの理屈があってもいいのではないか。ミニマムアートの行動には、そういった疑問も含まれている。薄き意思と薄きアート。削がれた意思と削がれたアート。消えいらむ世界と,消えいらむアート。そんな事だ。ミニマルアートを、削りとるという事で,何を削ってみるのかという事を,考えてみた。最後に作品全部を削りとることを考えてみよう。アートから物を外してみるという作業だ。

              アートは物造りのプロセスで、最後に物が残るのが当たり前だろうというのがずっと何千年ものあいだのきまりごとであった。少なくとも,それを生活の糧としている人々にその疑問はわかなかった。しかしここで,アートが別にもの造りのプロセスではなくてもいいのではとしてみる。「では,なんや、、」ということになる。つまり,アートはしても,作品はしないわけだ。ものおもふても、ものづくらないわけだ。そして,アートを思考としてみる。その場合、サイエンスの思考,政治の思考,アートの思考、それぞれ、かなり色合いの違うものでもいいわけだ。それは一般思考のように,言葉の操作,組み立てによる思考でなく,どちらかというと夢のように、限りないイメージの流れのようなものかもしれない。そうすると,夢に「成功した夢」と,「成功しなかった夢」があるのか,という疑問もでてくる。つまり,言葉による思考のように、それは優劣をつけることが適当とされるかということだ。

               

              アートが思考のプロセスであれば、思考における,失敗も、行き止まりも、かすも、ごみも、なくなる。ぜんぶが資産でありうる。失敗はなぜ失敗したか考えさせる、意味のある資産となる。資産である限り、ゴミに火が付き、大意識,大視覚につながり、くるくるとまわって、あるいは日常のしあわせにとつながる。もっと簡単に言うと,大切なスマイルの源泉となるのかもしれない。

 

(これもアートとゴミについて述べているのです)

(今日は少し,生け花でもしようかと思っています)