ひとり仕事 

 

走辺憲史

 

           産業としてのデザインはチームでやったり、他人との交渉の中でなされる。だが、通常アートであると、特に家の中に入る程度の大きさのアートだと、他人無視の、一人仕事が多い。一人仕事で、夜中にアート作品を作っている時など、 聞いた事のある童謡の替え歌で、「あなたはだあれ,誰でしょね」とか,「わたしはだあれ,誰でしょね、、、」とか頭の中で歌ったりする。 その歌を口先にのせたり、口笛にするのは、何かよい具合だ。「わたしはだあれ、、」というのは別にたいした意味はない。しかし、諸事に関し、自分は何をやっているのだろうという気持ちを示している。

              美術も過去の歴史の上にのっている。また、時代の風潮というか、雰囲気というか、興味というか、形式にものっている。我々はまた、時代の風潮だけでなく、過去の美術,そして、その成功例をたくさん知っている。今回はうまく作品が出来ているようだという時でも,何か過去の成功例に似たりしている。自分だけは別のルートをひた走りしているつもりでも、目的やら,手法やら,思考やら、手持ちのカードやら、過去に受け止めてしまったインプットやらが似ており、やはり小さい桶の中の徒歩競走でしかなかったりする。ぐるぐる回りである。

              人はみな、結局、かわり映えのしない、普通に売っている安いコンピューターみたいなものかもしれない。そこに入っているちまちまとしたアプリケーション等も大同小異,別に飛び抜けたものは入っていない。それでも 作家になったり,アーテイストになったりする。「わたしはだあれ、、、」というのは、自分はどういったインプットをうけてここにいるのかという事でもある。誰のプログラムで、ここにこうしているのかという事だ。それらの過去のプログラミングは、あるいはインプットは、どのあたりから来たのか、想像出来ない事も無い。それを思いめぐらし、たどれないこともない。わからないのは、それがかなり他人まかせであったのか、あるいは、どこかで、自分の好みを形成する選択が、自分によりなされたのかといった事だ。

              こうして個性にこだわるのは,無駄な事なのか。こういった個性主義,作家主義というのは近代西洋の悪い影響なのか。作家である以上,他人と同じではつまらないというのも、単なるエゴなのか。それとも正当な願いなのか。群れをなして泳いでいる大海のイワシ達は、我々のように、それぞれが自分の個性にこだわる事はないだろう。「わたしはだあれ」と疑問を発することもないだろう。(もし,違っていたら、すみません。) 人はたぶんイワシ以上に、世にはびこっている。量としては負けていないはずだ。それだけたくさんいても、まだ、「わたしはだあれ」と言っている。まあ,めんどうな生き物ではある。しかし、個性をのばすインプット等というものが本当にあるのだろうか。

             

              生け花とか俳句の宗匠等は,迷いが少ないようだ。こうすれば成功しますよ,ぜひこうしなさいと過去の成功例から教える。うまいのを型として、百も憶えれば,そのうち,もっとましなものを作るだろうという予測だ。昔の墨絵の教育も、師匠のまねからはじめた。蘭竹菊梅という四君子の描きかたを習った。それで,基礎の筆遣いを習った。そのうちうまくなるやつは,うまくなるだろう。そういったおおまかな態度だ。個性とかはもしあれば,後から出てくるかもしれないという,おおらかな態度だ。カラオケのレッスンも同じだろう。カラオケを習いにいく人々は,今よりもっとうまくなりたいという目的を持っている。先生となる人は「泣かせどころは、、、」と、教えて、このあたりは、「こぶし、ぶるぶるね、、、」とかいう。感情をもっと込めなさい、とかいう。うまいというのは、そのための標準が何処かにあるのだ。    

              この頃の美術は、こういったうまさ」から遠ざかって久しい。うまさに飽きたとも言える。うまさがいくらあってもアートの場合はそれが成立してくれるという約束が無い。しかし「うまさ」を否定しているわけではない。「うまさ」だけからくる特殊なメッセージもあるからだ。「うまさ」もカードの一つとしてあってもいいのだ。あってもいいのだが、うまさは勿論、裏を返せば,軽薄さと同じだ。軽薄さを百枚重ねても,アートとはなり得ないところがある。この説明は簡単で、例えば馬を見て、さらさらとその姿を映す事に長けた人間にとり、その馬をうまく描くのが簡単なあまり、その姿等いまさら見る必要等ない。しかし、見てもいないものをいくらさらさら描いたとて、内容は無いに等しくなる。つまりアートとしての基本条件を欠く事になる。この点ではへたくそのほうが、利点がある。へただから、馬ひとつで悪戦苦闘する。その悪戦苦闘は画面に傷だらけの軌跡として残る。それを見る人達はその苦労に深い同情と,ついでに愛情を感じる。しめたものだ。アートが成り立ったりするのだ。つまり、カラオケと違い、うまさというインプットはアートにおいては、多くの場合、かえってじゃまになったりする不純物のようなものだ。

    アメリカの大学で、アート専攻の一年生として教室にいったら、座っている学生達がほとんど絵等描いた事も無いど素人達でびっくりしたりする。つまり、紙の上などに何かを描き写した事などない連中ということだ。それは美術専攻だけではなくて、ピアノ専攻でさえも同じような具合のようだ。アートはまだしも,ピアノのほうで、これが鍵盤で,これはペダルね、、から始まるとは,日本の大学の常識から考えると摩訶不思議。日本では、中学,高校とプロについてデッサンをしたり,ピアノも子供の頃より習う。それで,大学の実技の試験に受かったり,落ちたりする。そして,もっとびっくりするのは、そのアメリカど素人達が,学生としてすばらしい絵を描き始めたりする事だ。ピアノだって同じなのだろう。みんなが同じような演奏家になる必要はない。音楽性を追求するだけなのなら、ゆびがなめらかであろうが、そうでなかろうが,何も関係ないわけだ。十年弾いていても無内容な演奏者は五万といる。そういう人はピアノの先生となる。ピアノなんぞやったこともない、ど素人が本当の音楽家になったりする。世の中は実にフェアーに出来ているといえる。

              「わたしはだあれ」という、アートとインプットという話しをしている。アートをしている人達も,いわば普通人で、べつに偉くもない普通人相手に制作している。それを批評する批評家という人々も、べつに偉くもない普通人である。カエルがカエルのアートをして,カエルに見せているようなものだ。平凡でつつましいインプットしか受けなかった、安物のコンピューターと、同程度の安物のソフトしかついていないような、普通人が、同程度の普通人のためにアートしているわけだ。その作る方と、あるいは見せられる方が、普通の普通人でないとすると、アートはたぶんなりたたない。これはじつに、微妙ではないか。非凡人が普通人のためにアートするのは無理だろうし、反対に、普通人が非凡人のためにアートするのも、単純になりたたにだろう。

           アートは天才の仕事だとおもわれても来たようだが、天才が上記のように非凡人であれば、非凡人がなぜ腰を屈めて、大人が子供に語りかけるように、あほな普通人むけにアートなんぞする必要があるだろうか。無い。それともあるか。

 

この辺り,かってアメリカの大学で美術教師をやっていた自分が、グチグチ書いています。