生業としてのアート  

 

走辺憲史

 

              アーテストの人生は概して儚い。別に儚くなくてもよいのになにかはかない。理由はそれが生業ではないからだ。百姓ならネギを作って売れば、ネギの金が入る。魚屋なら魚を仕入れて来て売れば生活費が入る。アートでは昔のように、仮に君がギャラリー用アーテストで、絵が結構売れているとしても、それは何故かはかない。画商に「先生のこの種の絵は本当によく売れています」等と言われるとお世辞とも聞こえるが、どちらかというと職業指導をされているようにみえる、実にはかない。画商のマーケット情報により絵を描くのは、うれしいものではない。そんな事をするよりネギでも作り、それを売りにいく方がみっともなくない。

              純美術(商業美術、売り絵に対応して)というのが実際にあるメデイアとすると、それはなかなか食えない職業である。食えないだけでなく,まあ,あまり人から相手にされないようだ。相手にされないだけでなく,あのアホのやっている事はよくわからん、と軽蔑、軽視をうけやすい。今までの定規ではかりきれないような事、あるいは アート的に 今までの善し悪しを越えたもの、あるいは完全にはずれたもの、そんなものが純美術の出発点であるからだ。それゆえに、人々には何をやっているのか想像出来ないだろうし,玄人達からもまた、自分たちの今までつちかって来たものを,ここまで馬鹿にしてよいのかと、反発を招く。つまり、どちらをむいても,あまりよいことはない。全然よいことのないようなメデイアなのだ。

      

       人は一年中馬鹿にされていると,自分でも多分そうだろうと,納得するようになる。しかし,それは精神衛生上,あまりよい事ではない。自分でもアホと信じ込んだら動きが悪くなる。考えがにぶくなる。性格も悪くなる。そして,それはもしかして少しばかりあるかもしれない自分の能力というものを封じたりするかもしれぬ。そういったアートはやりたいけれど、社会的、経済的にどうも成り立ちようが無いという状況ではどうすればよいのか。あまり真剣にならなくても、答えはいくらでもある。なにも行き詰まるような事はないのだ。ほんの少しばかり、考えをめぐらせれば、解決法はいくらでも見つかる。それもそんなに難しい事ではない。

       その解決法を教えようか。聞きたいか。聞くか。それは簡単に言うと、ひとつの人生でなく、いくつかの人生を同時に生きればよいわけだ。アートだけを 人生 唯一のテーマとこだわる理由はなにもない。そこにこだわって行き詰まるようなら、君は、多分、よっぽどかしこくない。つまり、あほだ。別の人生も同時に生きるという事は,自分の気に入ったものをいくつか探り、いくつかやってみて、楽にやれそうなものを,「ああこれね、、」と選ぶだけのことだ。別業をかまえるわけだ。別業は、成功者した社長とか、金の儲かる商店主とか、手堅い公務員とか,歌手とか,そば屋とか、何でもいいわけだ。教師なども時間が自由になるのでよい。しかし教師の場合できたら、本業で教えない方がよい。フラダンスとか、料理教室とか、盆栽の作り方とか、昆虫の育てかたとか、本業以外がよい。内容的に軽めのものを教えるようにしたほうがよい。本業を教えると,本業がやせる場合がある。軽めの教師業は気分転換にもってこいなのだ。そのうえ精神的に消耗がすくない。定期の給料がある。いいことずくめだ。

       昔も座っているだけで役の勤まる、タバコ屋とか、すずめ追いとか,色々あった。今でも、探せばある。そして可能なら,別業でそのうえ、人気を浴びるような職種がよい。若くて美しい娘なら、職業は「タカラズカ」とか、老人で不細工なら,どこかの町長とか,市長とかである。ある著名詩人は雑貨屋をやっていると聞いた。伊藤博文も若い頃,自分は政争にあけくれていたが女房には小店をやらせていた。 刑務所の看守などというのも、結構うまくいきそうではないか。暇な時はずいぶん暇そうだぜ。資格を取って、あれこれひまな職業をあさればよいわけだ。不動産鑑定士等という職業は、ひと月に一回位しか声がかからない仕事かもしれないから、研究してみる価値がある。もしも、かたい職業が君の好みでないのなら、昼間はアートをやり、夜になったら、きれいに、きれいに化粧をして、ゲイバーなどというのもよい。気分転換になるだけでなく、人生の勉強にもなるし、会話にみがきをかけることもできるだろう。ゲイは身を助けるのだ。なにも恥ずかしがることはない。好きな道に進むのが一番だ。

       もしも、自分がなんとか組というやくざの家系に生まれていたら、美術学校を卒業した連中を、たくさん傭ってやるだろう。地元の商店街から金をもらって、郊外に出来るスーパーマーケット工事の邪魔をしたりする。スーパーマーケットの業者に抱き込まれている地方議員に脅しをかける。それで、みなさん暇の時はアートでもしたらと、時間を与える。たまに地方の公民館等、必要も何もない工事のじゃまにいく時は、そのかわり、死にものぐるいで働けよ、という。ブルドーザーを持って来て、今。流したばかりのコンクリの基礎工事を全部はがしてしまえと命令する。そして自分も親分として、弟子達にまけないくらいのアートをいつもやる。

       このように,多くのあるいは、他の人生を同時に生きていたら、賛同も侮蔑も全部一身で受けられるから、それらが相殺して、傲慢にもならず、卑屈にもならず、ちょうどよい具合となる。ただ、ここで少しばかり問題になるのは、なにかの都合で、スーパー金持ちになってしまうことである。

      

       アーテストになるくらいの,それなりの能力があれば、スーパー金持ちになることも出来るかもしれない。まあ,出来るかもしれないという仮定の話しだから、本気で心配するまでの事ではない。スーパー金持ちで、かつ、かなりのアーテストだったという話しはあまり聞かない。なぜか聞かないかというと、金世界はギャンブル世界と同じようで、終わりの無い世界のようだ。山の上からのスキーとも似ているのだろうか。滑走を始めたら、途中でやめるはずがない。つまり、人、一生の持ち時間の中でアートまでやるのは面倒くさくなる。つい,最後まで滑ってしまう。そして、金の山のうえで時間切れとなる。

       昔から富というのは、なかなか広くいき渡らない。あちらこちらの片隅へ吹き寄せられ、そこで無意味に溜って山をなすもののようだ。これはエジプト,ローマ,ヨーロッパ中世の宗教貴族達,王達をみても、世界中どこを見ても似たり寄ったりだ。現代のファイナンス業界人,金転がし達をみても、それはあまり変わっていない。つまり多くの普通民達は、金転がしになれないまま、いわばきびしく,そしてさびしい、人生をおくるようになっている。そして金転がしの片棒をかついだ人間も、最後はもっと大きな金転がしに吸い取られる。

       物を作ることに喜びを感じる、普通民達、野菜。果物を作ることに喜びを感じる普通民達、あらゆる産業にかかわり、朝から夕刻まで汗して働く人々というのは、どういうぐあいか、少数派である金転がし達に歯が立たないようである。世の金ころがし達はよく働く普通民の頭の上をフィールドにして、彼らだけの運動会をやり、勝ったり,負けたりしているようだ。なにか人を馬鹿にした話しである。かくして、この世は不都合きわまりない。昔のヨーロッパの宗教貴族達などの繁栄等は、ほんのすこしの操作で覆すことが出来たのだ。思い切って、皆でキリスト教をやめてしまえばよかったわけだ。 だけど、そこは普通民の人の良さが反映して、決してそうはならなかった。神はおいしいウオッカより、アイスクリームよりも、大切だったのだろう。おいしいドーナツより、サーフボードよりも、大切だったのだろう。宗教貴族が重い衣装に着飾っているのを,庶民は感心して眺めていた。視点を変えれば実にコメデイではないか。現世で人々から搾り取っている宗教人達は、人々に現世での幸せはあきらめて、せめて天国を夢見なさいと教えた。もっとしぼりたい時は、〔免罪符というのを〕買わんかねと持ちかけた。時々、人に言えない事をしていた普通人は、それはありがたい,ぜひひとつと、買っていった。 人はなにやら,たよりない。富の分配は人類のどうにも裁ききれないテーマのようである。究極のソーシアル エンジニアリングのテーマである。

       そういった、宗教貴族達、金転がし達、無粋な成金達が、アートの注文主であり、スポンサーであった。そんな連中にもてはやされて、名をなし、己を食わせていった、芸術家、音楽家達にたいして、涙が出てこないか。はっきり言って、君のパトロンはみみずくらいの頭脳しか持っていない連中だったのかもしれないのだ。持ちたる者の感心を得ようと,彼らの周りをうろうろしている,音楽家,アーテスト達はあほらしい。みたくない。アートに関わる人間がその程度の社会理解しか持ち得ないとはなさけない。現代ではそういった昔の権力者にたちかわり、税金からのおこぼれ,社益の一滴などで、いなかの公務員や、どこかの会社員などがアートに携わる者に金を恵んだりする。あれは経験したものには解っていると思うがほんのはした金だ。そんなはした金をもらう努力をするより、自分で起業すれば、桁違いの金が入って来たりする。すこし立場をかえればよいだけのことだ。

      

     ここでまとめると、アーテストをやるためには,あまり金持ちになるのはやめておこう。次に他人の富みにたよるのもやめよう。そんなにしてまで、やるほどの価値はアートにはない。音楽もまた同じと思う。今までの,あるいは多くの音楽学校,美術学校は基本的に不親切であった。学生達が卒業したその日から食えなくなるのがわかっていても何も手だては講じてこなかった。音楽,美術の講義の合間に、どう自己経営をするか,方法と防衛を教えるべきだった。前記したように,例えば、消防士の資格も取っておけば、火事が起こるのは平均ひと月に一回でしかないから、残りはぜんぶ フリータイム。仮に体は何やらと使う事があっても,頭はまあ,フリーだろう。他の消防士が時間つぶしにてをこまぬいているとき、アートがどんどん出来ていくわけだ。そのうえ給料も悪くはない。退職金もよい。組み合わせの技術だ。君があほでも、そのくらいは出来る。

       斎藤道三は、はじめ坊主で、油屋の社長となり,社長をやりながら、美濃の国でその国主になったという。アート、特に純美術をやろうと思えば、斎藤道三をやればよい。油の種類は違うが、出光の社長が、アフリカではコンゴの大統領にもなり、アフリカ踊りは誰よりも上手だった、といったようなはなしだ。和歌の道でも玄人であったという話しだ。たったそれだけのことを書こうと、この短文となった。道三は 諸芸の達人だったという。歌も、踊りも、政治、戦争も出来た。アートに飽きたら,せめて歌も踊りもやるべきだ。