ヒトというデザイン  (その不備、不足等)

 

 

走辺憲史

 

              人の使う物、人のスペース等のデザインをしていると、時にはヒト自体のデザインについて考えさせられる。どういった理由でこういった体躯になったのだろう。なぜ、人はこの程度の運動能力をもち、この程度のスパンで生きるのかとか疑問がわいてくる。このヒトデザインはいったいどういうことなのか。これでも人という生物は、いろいろ成功しているのか。それともあんまり成功していないのだろうか。長年の進化の結果がどうしてこの程度なのかといった疑問である。

              ヒトの体というのは使用者側から見れば何かうまく出来ていない。妙に薄い水袋のようなもので、あまり早く走れないし、高くも飛べない。ちいさなナイフでもプチっと差し込めば体液がすぐに漏れだし割に短時間で死ぬようだ。高いところから投げれば、ペシャーと潰れる。実に薄い水袋みたいだ。頭のよいところもあるようだが、頭が良くてもこれだけ無駄な悩みが多いという事は、全体としての使い心地は良くない。性能上の問題があるのだろう。動いていないときのアイドルに問題があるのかもしれない。設計の悪い車がアイドルでぶるぶる震えているのと似ている。常時気分に安定感がないという事は、気分という機能が優秀でないという事だろう。時々怠けたくなるのは、エネルギーの配分不備、あるいはエネルギー転換の不具合で怠けたくなるのだろう。しかし、別方向から見るとラーメン一杯食うともうおなかがいっぱいになる。たったそれだけの雑物の注入で半日は動ける。ということは、燃費性能が悪くはないのかともいえる。また、おいしいものを食ったら、おいしいと感じる事が出来るのは大変良い機能がついている。ただ、まずいものを食ったら「まずーい」と感じるのは機能が多様性に欠け、プログラムが単純すぎるのかもしれぬ。

              具体的な例をあげると、なぜ人の足には長さの調整機能がついていないのだろうか。長さを可変にすれば、かなり便利なはずだ。椅子の高さ調整も可能だが、それより人の体のほうが調整出来てもよいではないか。足が長さ調整出来れば、速く歩きたい時は足を長めに伸ばして、スピードをあげる。あるいは、草丈の高い草原で歩く時、視界を良くするために足は長くする。水をかぶった湿原を行く時も足が長い方が便利であろう。そして洞穴を歩くとき長い足は邪魔だから短くすればよい。狭い部屋しか借りる金のない都会人の為には、足はぜひ収縮するべきだ。狭い部屋に体が長いのは無駄である。短足が正しい。長足のため大きな寝台を置くのは無駄である。足が伸縮するのなら、ベッドは今の半分の長さでよい。昼間大きなベッドは実にじゃまになる。家賃の高い都市部では人口にベッドのしめている面積をかけたら、ずいぶんベッドの面積に家賃という形の金と、都市面積を費やしているのがわかるだろう。

              あまり想像力の豊かでない人のためにもっというと、スペースの限られている、艦船や潜水艦の中では〔短人〕のほうがよほど理屈にあっている。足さえ短く出来れば、艦船の天井は半分の高さでよいかもしれないのだ。一台何億もする戦車でもずいぶんコスト制限出来る。個人のヨットにしても、何千万円かする40フィートの大型ヨットを買わなくても、伸縮可変であれば、30フィートくらいで十分広々と感じるから、大変経済的である。飛行機とかタクシーとか、人を運ぶあらゆる運搬具にこれはぜんぶあてはまる事だ。長短可変なら飛行運賃は今の半分でも航空各社はやっていけるかもしれないではないか。

              ライアル ワトソン氏は,多くの動物達は足というものをそなえ、その効率をあげ走行スピードを得るという進化をとげたと書いている。二足歩行を褒めているのだ。それは偉いとも言えるが、マラソンなどで人が走っているのをみると、決して楽ではなさそうだ。二本の足以外のコンセプトもあったはずだ。車輪を装備しておけば、あるいはなんとか虫のように手足をどうにか操作すれば、人の外形を車輪形にだって出来たかもしれない。つまり、歩くという動作は省略して、全体で高速で転がって行く事もできたのだ。長い坂道のとき等は、転がって降りる事が出来たのだ。またワトソン氏は人の鼻が大変劣悪なものになったのは、直立した時、顔の真ん中に備え付けるのに犬のような大鼻はどうもそぐわなかったのだろうといっている。つい必要上小さくしてしまったから、嗅ぐという神経のついた皮膚面積を失ったらしいのだ。実際ヒトの嗅覚は実に劣悪なものである。しかしこれも、目的は理解するが、ここまで性能を落とす必要があったのだろうか。鼻は別に空気注入口として過不足は無いが、その空気を取り込んだ後の貯蔵には不備を感じる。海に潜ろうとするとたった一分、二分でまた上がってこなくてはいけない。これは明らかに不便であり低性能である。

           人の作ったり、使うデザインではなく、人自体のデザインの品評、評価をしている。我々ヒトは何年もヒトをやっているわけで、その長年の経験から、ヒトの出来具合の善し悪しを、身を以て感じているはずだ。それぞれが、ヒトの使用勝手に多々意見もあるわけだろう。ここではまず自分の個人的な感想から述べてみる。ヒトの出発点についての事だ。色々な工業製品を買ったりする時、例えばコンピューターとかトースターとか、粗末なものにしろ、安いものにしろ、使用マニュアルがついている。このボタンを押したらこうなり、ここを押さえたら、何々が出てくる、バッテリーはまあ、二年でパアーね、とか書いてある。それでヒトの場合はどうかというと、何もついてこない。どこを押したらどうなるというのが、全然解らない。どのくらいのアビュースに耐え、どのくらいでクラッシュするとか出来たら知っておきたい。それさえあれば、母親の元で何十年も下積みを経験する事は無い。「これまで長い事お世話になりました」、と早めに身を処分することが出来る。マニュアルの欠如は、大きな重大なデザインミスである。ヒトというのはこれだけ使い勝手が悪い上に、その上、使用書も説明書きもないのだ。マミュアル無しで、何もかも人に聞かねばならないのか。全部聞くのはいやではないか。間違えて途中でヒトが壊れたら、精神科医などというのがいるけれど、壊れる前にマニュアルがあったらと思わないか。

           もう少しヒトの初動時のデザインミスについて検討してみると、ヒトの学習方法というのがまた大変な問題を含んでいる。幼稚園から始まり、小、中、高,12年。それでも足りなくて、大学というのが四年、八年とある。それだけの膨大な時間をかけている。やっと学業が終わりの頃になると、ヒトはもうエネルギーが枯れてしまい中には脳死してしまうものもいる。これはいかにも膨大なデザインミスと思った事は無いだろうか。これらの情報取得のために費やす年月は長過ぎないか。成人している人々のヒトとしての性格、感受性、判断、などは子供のときにすでに備わっていたのだ。欠けていたのは情報知識だけだった。初期人生のほとんどを情報取得に使っていたわけだ。なにやら腹が立ってこないか。これらはなんらかの情報/知識インプリント システム(刷り込み)で解決された問題かもしれない。またカセット方式で外部からプッチンと差し込むだけにしておけば、随分楽だったはずだ。         

              次に有性生殖の是非について述べる。このあたりも問題が山積している。 有性生殖の利点は単にジーンを混ぜてみれば、時には今より進んだものが出るかもしれないといったことだ。しかし、今より進んでいないものも随分出るわけだ。成功しなかったほうのジーンで生まれて来たヒトの群れはどうあつかわれればよいのか。淘汰されればよいのか。またヒトの場合、性愛には恋愛という余分のプロセスが加わる。相手もこちらを好めば簡単だがいつもそうはいかない。そうした恋愛という重なる苦労の後に相手を得たとしても、それは普通問題解決とならず次の問題開始でしかない。ヒトとヒトの相性ということだ。ヒトの場合子育て期間が長い。いくら相性が悪かったなと後で発見しても、親ともなれば、約束期間が何十年と続くわけだ。

              ついでの例であるが、ヒトが座らなければ排泄出来ないというのも、不便(かけ言葉です)である。立ったまま、マラソンをしながら排泄できたら便利と思わないか。金魚達は水槽のなかで気持ちよく泳ぎながら、同時に排泄もこなしている。ヒトがアルプスのモンブランの北壁を登りながら、排泄したくなる。しかし真下に見えるロッジやホテルの窓と言う窓から世界中の観光客が望遠鏡をもって登山者のあらゆる行動を見守っている。あの岩壁のどまんなかでウンウン座り込むのはじつに勇気がいるではないか。身体的な事をもうひとつあげると、ヒトには汗をかいたり、目に水を流すという水洗機能が少しばかりついている。そこまで付けたのならついでに全身ワッシュもつけてもよかったのではないか。つまり大量の水を全開で、シャワー代わりをやってくれれば、一日さわやかでいる事が出来る。

              次に、ヒトの人生のその満足度、幸福度、について検証する。満足というのは基本的にヒトの生活状況の良否には比例しないようだ。状況として良いはずは無いのに、満ち足りたヒトはいる。だが多くの凡人にとって悲惨な状況はすなおに悲惨とされる。そうして苦しみのただ中にいるときヒトはどうするのか。仏教では「欲を捨てれば、どうにかなるんじゃない」という。キリスト教では「まあ、仕方ないじゃない、天国にいって救われましょう」というそうだ。不必要な苦しみは、それにフォーカスしないのが楽である。つまり、デイフォーカス (フォーカスしない,フォーカスを外す)フィルターとか、スイッチとかそんなものが装備されていれば、夜中に悩みベッドの中を転々とする事も無い。歴史上、ヒトは自分たちのおかしたミスから何度も立ち上がって、今の文明を築いたとかいうけれど、文明なんか築かなくてよいから、もう少し楽にやりたいというのが本音ではなかろうか。

              人生の 終わりの方をみてみると、このあたりも実に無様に出来ている。つまり老人となり歩けもしない、筋力が落ちて食物の嚥下能力もなくなる、頭ももう何年もぼけっぱなし、自分でも生きているのかそうでないのか不明となってくる。つまり生き物としては終わりが来ているのに、どこにもそれを切るスイッチがついていない。これは実に問題である。なぜそんな基本的に必要なものを付け忘れたのか。オフスイッチのついていないモーターを誰が設計するか。オフのついていない車のエンジンがあるとするとどうなるのか。そういったデザインミスをわれわれは押し付けられているわけだ。ヒトは精神安定剤とか、麻薬とか、抗うつ剤、痛み止めとか対症療法など工夫したが、それより何か身体面のデザイン解決法がなかっただろうか。

 

              サイエンスの方の人間はこういった目に見えやすい改良だけではなくて、血の造成に関して、こういった体の機能改造が求められるとか日々やっているのだろう。臓器入れ替え等というとろい時代はそのうち終わり、新しい臓器を開発したから、そちらにしましょうという時代がもうそこまで来ているのかもしれない。