プログラミング  実用編(さてどうするか)  

 

走辺憲史

 

今度新しく、小学校を作る事になった。与えられた土地はこのくらいで、生徒を何人くらい収容したいという。そうすると床面積はざっとこのくらいになり、二階建ては理想的ではないから、一階建てにして、どの教室からも直接校庭に出られるようにしよう。室内に開放感をあたえるため、天井は吊らないで、屋根の線まで上げよう、壁の多くは防音壁だがこれらを移動式にして、クラス割りという意識をやわらげよう。壁、床は維持管理、安全、耐久性を考えて、これこれにしよう。建物全部の空気を暖めるより,床暖房にしよう。年間エネルギーコストはこのくらいになる。教師達の動線をおさえ、管理者の目の届きやすいスペースを確保する為に従来のような教室の並列はやめ、病院のように管理コア(中心)を持つものにしよう。体育館ではないが冬でも外で遊べるといったスペースもつくろう。動物を飼うスペースも必要だろう。温室も勿論要るし,工作室とその資材室も要る。

こういった作業は普通、建築デザインの範疇に入ることだろう。与えられたプロジェクトに建築家はそれぞれの能力をつくそうとする。しかしそれだけでは街は建物やプロジェクトで埋められることになっても、何やら足りない。建築の,あるいは街全体としての知性の事である。知性はどこから来るか。やはり作ってしまう前にいささか考える手順をふむという事だろう。そのプロセスをプログラミングという。建築家の中には建築設計はものすごく下手でも、建築の妥当性を考えるのに非常に能力のある人々もいるだろう。そういった人々には実際の設計はしていただかないで、彼らの得意な思考と言う部分でプログラミングに参加していただければよいわけだ。

それでは建築プログラミングとなるとどの辺りを考えるだろうか。上記の小学校についても、もっと検討の範囲が広がるだろう。たとえば、この地域はすでに人口減少の傾向にある。十年後、二十年後を考えると、今、これだけの金をつかって、こんな場所に小学校がいるのかという疑問がおこる。教育委員会は要るとかいっているが、彼らは正気なのか。今,この街を支えているのは何々産業である。その産業は過去の産業であり、小学校よりもっと必要なのは今から失職していく壮年層を支える為に、彼らの転職の為の職業訓練,あるいは大学の成人講座をこの街に呼び込む事ではないか。教育は大学までで終わりといったものではない。生きている間中の「Re-tooling]が必要だ。「お色直し」である。あるいは、違う衣をまとって出直す事である。親が職を失い、街を去るかもしれぬ状況で、小学校に何々億の校舎を与えるのは狂気である。建物に金を使うのはやめよう。予算を融資の基金として、親達の教育からはじめよう。 ,,,,まあ,こんな事がデザインプログラムとして検討されるかもしれない。小学校より目の先に見えている家庭の経済的崩壊をくいとめるほうが先決だろうという検討だ。

又,器を変えても、中に盛る料理が同じではあまり意味が無い。もし仮に小学校新設が進められるとすれば、この際この学校の問題点も整理しておこう。いままでのここの小学校教育で,いったいなにが不備、不足であったのか。この際、器を替える前に、中身の査定があってもいいのではないか。

              中身が変わるのなら、校舎が同じでよいはずが無い。こんなことをいまいる先生方に聞いてもまじめに答えてくれるだろうか。まじめに答える能力がないとしたら、どうすれば答えがでるのか。少なくとも、なにやら方向が見えてくるまでは、設計は先ず,おあずけにしょう。焦って,むだな予算を使うのはやめよう。それとも,こたえがすぐに見つからないようなら、小学校を三部制にして、三人の校長をおき、その三人に勝手にやらせて競わせてみるか。これは近所の魚市場式だ。売っているのはみんな魚だが,店により,売り方、サービス、個性など結構違う。それと同じで三人の校長に勝手にやらせてみる。どの校長の学校に行くかは子供達の勝手とさせる。魚屋を選べるのなら、校長を選べてもよいはずだ。

           それとも,小学校から、大学のように専攻を選ぶ事が出来るようにするか。専攻と行っても、学科別等をやる必要は無い。興味とやりかた別でもよい。例えば、もの造り科、もの調べ科、もの思い科、とかの科別とする。それは、手と頭を使って何かを作ったり、料理したりするそんな科と、自分達で興味のあるテーマを選んで、リサーチする、調べる事に長じる子供達を育てる科、{物思い科}は人のやった事を調べるより、自分でものを考えたり,文学したり、アートしたりしたい子供達の科、とかである。こういった方法は小学校にしろ、もうよその国では珍しくはない。

 

それで、ついでにこの小学校プロジェクトを、もう一段切り込んでいって、この同じテーマを、ソーシャル エンジニアリングとしてみてみよう。デザインプログラムという、プロジェクト毎の検証でなくて、社会全体の中でのこの「一こま」、それを全体の流れの中で見てみるといったいどんなふうに見えるか,あるいはとらえられるか,とかいったことである。視点/ギアをもう一段上げてみるわけだ。

基礎的な事を述べてみると、例えば現代の日本では、官僚指導による殖産興業、産業兵士育成用の押し付け型教育、画一化はよい事だという時期があっという間に過ぎてしまい、かっての成功の要因がすでに次の時代の足枷になっている。いまさら、教育に個性のある人材をとかいっても、もう遅い。教育改革を何年も叫びながら、どうすればよいのかという答えはいくらでも目の前にありながら、会議をくり還すばかりでで、何の実行もしない。やる気になれば、明日の朝からでも変えられることが山済みしていてもである。見えていてやらないのは怠惰である。あるいはシステムの硬化である。

つまり、ソーシャルエンジニアリングとなると、個々の小学校を建てるか建てないかではなくて、もっと簡単に、「いったい教育をとうして、今、なにがやりたいのじゃ、、」という質問から始まる。物さえ作れば食っていけるという時代が過ぎたのなら、ただ黙って,毎日黙々と働く勤勉なアリ達がいくらいても、もう食っていけないというわけだ。「こうすれば、、」とか「必要なコンセプトは、、、」といえる人材が必要なわけだ。そういった人材は押し付け型教育からは出てこない。リサーチ型教育なら少し可能性がある。答えは見えているのになぜ実行出来ないか。それは現存の官僚という利権団体自体に理由がある。

              人は自分でメスを握って、自分の開腹手術は出来ない。だから、官僚達に官僚達は変えられない。官僚を変えるには、外部より公務員改革をする。それをやるのが政治家だ。かって日本を成功に導いた官僚が今足枷になっているのなら、どうすればそれの打開が出来るか。それを提示して政治に載せていくのがソーシアルエンジニアリングである。

              具体的には公務員の年功序列の廃止から始めるべきだろう。文部省のある課の課長の席が空いたら,それは一般から公募すればよい。その公募に勝ち残った人だけがその役に付けるようにする。これも日本以外の多くの国ではすでに規定となっている。国連の多くの組織のポシションもそうなっている。これで公務員も実力のある人が,実力の必要なポシションに付く事が出来る。又,その人が役職を去ることになっても、天下り先等用意しなくても、一般社会から、見識を買われて、よい値で傭われていくだろう。堺屋太一さんによると今の日本の上級公務員で、その給与にみあうほどの人はあまりいないそうだ。

              教育改革をやる為にはこういった手順ではじめましようと、その方法を組み立てていくのもソーシャルエンジニアリングである。不愉快な,時間の無駄みたいな授業しか提供出来ない学校はつぶれていかねばならない。経営者だけがもうかるあまたの私立の学校法人も、ほとんど,消えていかねばならない。その手順を考えていくのがソーシャルエンジニアリングである。高級公務員の為の大学での設置も必要だ。「Public Administration」といった専門職コースだ。前記したように、それまで別の職種で経験を積んだ人々がこういった高級公務員コースに「Re-Tooling」して入るようになれば、今の官僚組織もかわらざるを得ないだろう。なにしろ実力のある人が自分達のボスとして入ってくるわけだ。自分達の無能のごまかしようがなくなってくる。

 

追記

建築とデザインプログラム、そしてソーシャルエンジニアリング等について、勝手な事を書いてみた。

別に言葉/職種のアカデミックな定義なんぞしているわけではありません。定義には興味ありません。{あーせい,こーせい}といっているわけでもありません。「こんな事をしていて,いいのだろうか」という一般的、かつ基本的な問いを,形を変えて述べてみただけの事です。なんにも新規な事は書いていません。みんな我々の既に知っている事ばかりです。

              突然ですが東京のオリンピック施設を全部新設するというのも実にあほな企画ではないでしょうか。仮建築にこそ技術の粋をあつめてもいいのではないでしょうか。終わったらその日にストーブ用のペレットにしてしまうとか。全部紙なので,再生してまたなにかにするとか。スタジアムのベンチでも

紙ですてきなものが出来ると思います。