広島での事  (思いつくまま)

 

 

走辺憲史

 

 

              戦後の食糧難の頃,自分は田舎の祖母のもとにおかれ、そこで育てられた。小学校二年生で、街に住んでいた両親にひきとられた。少しずつ世の中が落ち着いていったのだろう。それから高校を卒業するまで、広島には十年近く住んだ事になる。山口県の田舎から広島に出て行ったのだが、そのくらいの距離で方言も違っていた。

              初めての時、広島へは汽車に乗って行った。当時の広島駅はコンクリで作られた,ただ灰色の暗い建物で、駅前には闇市が広がっていた。広島を形作る七つの川の川沿いは廃材で作られたような、バラックがぎっしりと並んでいた。自分の土地は無くても、川の上に棒を差し込んで住むのには文句はつけられないだろうといった風情であった。原爆で壊滅的打撃をうけた後、草も生えないだろうと言われた土地に草も生えていたし、人も重なり群がっていた。バスも走り、電車が尻を大きく振りながら走る姿は珍しかった。

              自分が両親のもとに行き先ず驚いたのは、住んでいる家のぼろさだった。戦後の広島であったから、多くの家がぼろではあったが、両親のすみかも戦災で崩れなかった二軒の家の間に屋根を渡しただけのしろもので、四畳半二間に一坪ばかりの台所。そして、その台所の引き戸が玄関でもあった。台所の壁は5寸幅の薄板を下から張り重ねたもので、板の節穴からは外がみえた。台所に水道がひとつあり、セメントの流し台が、洗面、調理、など全役柄をこなしていた。後にはプロパンガスになったが、始めの頃は料理は七輪だったとおもう。電気釜というのもそのうちでてきた。

              びっくりしたのはその家には風呂が無い事だった。うまれて初めて、銭湯というのに行った。後には近所に綺麗なあたらしい銭湯が出来たりしたが、始めにいったのは家からかなり離れた大正時代みたいな古びた銭湯だった。そこで人前で着ている物をぬぎ、見知らぬ人々の間を裸で歩き、なにやらどんより汚れた湯船にはいった。街に来るのではなかった、これはおおきな間違いだったとなんども思った。

              その貸家の家主には何度か会った事があるが、駆逐艦何々の艦長であった夫を戦争で失い、親族が我々の借りていた家を作ってくれたらしいのだが、それでもやっていけなくて、自分達は広島大学のそばの母子寮に住んでいた。当時自分の母は耳鼻科の看護婦で父は中学教師であった。母は忙しかったようで病院の帰り道にある、あちこちの八百屋等で手軽な物を買って来て、きゃべついためとか2.3分で出来るような料理を作っていた。田舎の祖母のように時間のかかる煮物とか焼き魚とかはあまり無かった。田舎のように朝食にコーヒーとホットケーキとか無かった。大叔父の家から来る絞り立ての牛乳とかも無かった。「町の生活というのは、なにやらまずしいのう、、」と思った。

              その貧しい貸家のうらが脳病院の畠だった。畠の向こうが脳病院で、脳病院のしばらく向こうが小学校だった。小学校は1000人とか2000人とか生徒のいる学校で,田舎で一学年20人くらいのところからきた自分はなにやら気分が悪かった。給食というものがあり (田舎ではなかった)アルミのぺらぺらした食器に食えそうもないもやしのたくさん入った煮込みが盛られていた。パンが付いていて、噛んだら味の無いフォームラバーみたいだった。一番ひどかったのはミルクと称する物で牛乳の味はしなくてなにやら白いものだった。「だっしふんにゅう」というものだと聞いたが不思議な飲み物だった。

              給食を学校で食べるのもけっこう苦難であったが、もっと嫌だったのは、当方が体調が悪くて学校を休んだとき等だった。クラスのなかでも成績が良くてかわいい女の子が福級長(級長は男子生徒)となっていて、その日食べなかった給食を家まで持って来てくれるのである。我が家族の住んでいたその貧しい家を級友に,それもクラスでもめだつかわいい子に見られるのは実に嫌であった。その子の両親はふつうの立派な二階建ての家に住んでいた。

              我々の住んでいたのは広島市内の東部の方、東雲町という所だった。地面はその横を流れている猿候川の川底より低い土地で、当時街の南側はほとんど蓮田であった。蓮田の向こうに幅十メートルはあるどぶ川があり、どぶ川にはポンプ所がついていて年中その低地の水を川に汲み上げていた。原爆の落とされた広島の中心部から見れば南北に長い比治山という丘が防壁となり、そのあたりの街並は昔のものがかなりみすぼらしいまま残っていた。東には猿候川をへだてて、キリンビールとか、松田三輪車の,東洋工業本社があった。鉄道の広島操車場もそのあたりに広い面積をしめていた。

              広い操車場で思い出したが、広島は軍事都市といわれるほどのものはたいしてなかったようだ。かっての日露戦争の時、軍は広島の宇品港から満州に資材,兵を出した。被服廠というものの施設があちこちにあった。そして宇品線という港への引き込み線もあった。被服なら軍装だけなのだろうが、高い堤防のような物に囲まれた建物もあったから、弾薬もあったのかもしれない。しかし呉市のような道路が目隠しされているような、純軍事基地ではなかったようだ。

              通っていた小学校に時々、妙にぴかぴかして大型でゴージャスにみえたアメリカ車が来た。子供達の健康診断だった。親切な行為に見えたが、実はアメリカ軍が原爆の効果を記録していただけらしいと、後にわかったとかいう。前記した比治山の上にかまぼこ型をしたABCCという病院のような設備があり、アメリカ軍の経営らしかった。そこで何をしていたのか知らないが、原爆患者の治療は後に広島の赤十字病院が全部うけついだ。このあたりの正確な歴史は知らない。

              公立中学校の教師であった親父は麻雀とかいったものが好きだった。家族を住ませているぼろ屋をどうにかしてやろうといった興味は全然なかった。同僚の教師を集めては、じゃんじゃらやっていた。なかには自分の通っていた中学校の教師もいた。麻雀をやるときは教師達も違った性格であった。学校という表社会とは別の顔をしていた。

              広島では三度ばかり引っ越しした。始めに住んでいたぼろ家は取り壊された。自分が高校一年生の時、やはり日本が好きでなかったのか、親父は自分の生まれたアメリカに帰っていった。仕事が見つかって落ち着くまでという事で,一人で帰っていった。一年後くらいに母も嫌々渡米した。自分と二つ下の妹は広島に残された。送金はあり,親はいないというのだから、なかなか悪くない状況ともいえた。大変素敵な状況だったともいえるが、中学、高校の頃、自分は教師達の教えている,勉強というのが大嫌いだった。これには困った。ここからここまでが宿題だといわれたら、絶対しなかった。ここを試験に出すから勉強しろといわれると、なにか抗体がむくむくわきだして、奮闘努力をしても、勉強というのが出来なかった。これは自分ながら当時、人生とは難しいものだと思った。

              高校二年生の時70日とか80日とか欠席の日があって、その高校ではじめてであったかもしれない、落第会議にかけられた。知識を得る事に抵抗していたわけではない。学校には行かなかったが、自分で図書館に行き自分で勉強したい事はびっしり勉強していた。ただ学校とペースがあわないというか、そんな感じであった。学校外の実力テストではけっこう優良点をとっていた。そんなに学校に行かないで何をしていたかというと、図書館にこもらない日は汽車に乗って岡山の倉敷までいったり、鳥取までキャンプ旅行等に行っていた。広島の町の路地という路地もずいぶん自転車で走った。広島も、少し田舎に入れば,非常に美しい田園風景が広がっていた。三次、西条あたりにも美しい町並みがあった。

               図書館では壁にある物はなんでも読んでいたが,日本常民史とか、世界文学全集とか面白かった。歌とか,詩集もすこしは読んだ。三好達治とか会津八一とか気に入っていた。寺田寅彦の次はモーパッサンとか無差別主義だった。図書館で一人の時間を過ごすのは快適であった。ある時、何かの学科の先生に「お前,少しくらい勉強せよ」といわれた。自分ははらをたてて、「勉強したら、あなたくらいのえらい人になれますか」といってしまった。まあ,いわれた相手も気の毒であった。日頃、教師をえらいとおもっていなかったのが、表現として出てしまった。 学校で強制されて、フランス革命は何年でと憶えさせられることが苦痛だった。「フランス革命の経過は自分に聞いてくれ」というくらい推移はよく理解していてもである。教師達に対して、あなた方になんの権利があって、自分の前にたちはだかっているのかというのが本音であった。自分の邪魔をしないでくれといつも思っていた。学校の先生というのも結構意地の悪いもので、ある担任の教師は進路相談という窓口をつかって、自分に「お前の行く大学なんかあるのか」と聞いた。よく言うわと感心したが,ここでも癖が出て、あなたに行けたような大学があるのなら、僕でもどうにか入れるでしょう」と、これは発声しないで、心で思っていた。どうも権力にはあらがってしまうところがあった。

              まあ,こういった個人的経験は広島という街のせいではなくて、文部省とか、教育制度の問題であったのではなかろうか。個性は敵だという時代だったのだろうと思っている。教育は抗わないサラリーマン生産工場みたいだった。戦前ではあるまいし、「右へならへ」にこだわっているようだった。こうして、時は経ったが、広島という街には好感を持って郷愁を憶える。

 

追記

今まで,何度か書いたシンプルライフというのは食べ過ぎ,太り過ぎ、買い物し過ぎの大量消費時代への疑問から発している。戦後の窮乏ライフは又,随分別のものであった。多くの人にとり、それはどう生き延びるかという,日々の戦いであった。ほんのこの間の事である。食えない時代というのがあったのだ。そんな中で親達は子供達に食える資格をあたえようと学校に行かせた。しかし,学校に行かされた子供達は、そんな経済問題を察しはすれど、芋でも洗うような刷り込みに、不快感を憶えなかったものはいないのではないか。社会の貧困がそのまま,押しつけ教育という貧困となっていた。(と,思います)