遠き景色  (人は集散する)

 

 

走辺憲史

 

              1960年代から1970年代にかけて、ヒッピーの時代というのがあった。親達の金余りの生活に、あまり幸福らしさをみつけることの出来なくなっていた、アメリカの若い世代が始めた文化革命であった。結論から言うとそれはあわき綿菓子のようなものだったのかもしれないが、それでも、頭を垂木でぶんなぐられるような意識改革をふくんでいたし、「なるほど、まったくそうであります」という理論性の高さも含まれていた。ベトナム戦争中の平和運動でもあった。

              人々は集い、そして離れていく。あの頃の仲間達はみんなどこにいったのだろうか。一緒に生活していた男達,女達、まだ,どこかでこの世の空気を吸っているのだろう。時期としてそれは自分の学生時代と重なる。思えば色々な奴がいた。誰の話しをすれば当時の時代のにおいを説明出来るのだろうか。まあ,しかし、当時の連中と今ここで会うことがあったとしても、昔話しはあまりしないだろう。その後どうなったのかというのは少し聞いてみたい気がする。あとはたがいに「ヒヒヒヒヒ、、、」と笑いあう位の事だろうか。

              J という名の男がいた。同じ美術学校の学生であった。あるいは親しい友達でもあったみたいだ。そのあたりはどうもはっきりしない。つまり自分には彼の全容がみえていたわけではない。彼は学校からたいして遠くない山の手の丘の上に住んでいた。テキサスあたりから来たという事で、おもいっきり貧乏だったともいう。学校は九月から始まるのだが、その新学期のはじめにおおきな100ポンド入りの米を二袋と豆を二袋買ったという。当時の事で一袋10ドルくらいの特価品である。それだけで次の春まで過ごしたといっていた。学生アルバイトなど、全然する気がなかったというわけだ。近所のスーパーマーケットに行けば、牛の骨とか、豚の骨等、まあ捨てるものは只でくれる。けっこう肉のついたそれらの骨を朝から火にかけておけば、夕食までには上等のスープストックが出来る。それにすこし、米を入れたり豆をいれたりして、たのしく、いい食事をしていたらしい。野菜もマーケットの裏に行けばけっこう良いものが捨ててある。家賃があるだろうと思われるかもしれないが、家賃は無いといっていた。彼は黒人の6フィート以上の大男で、みかけは悪くはなかった。かいま見た事があったように思うが、白人の中年女の家の地下室に住んでいた。傾斜地の地下室で、入り口は別にあり裏から入れば、何も問題の無いスペースだった。家主には時々あちらの方のサービスを提供し、家賃はただだということらしかった。本人が自分でそういったのかどうか、よく憶えていない。

              学校で J がはじめて気になったのは、簡単な理由である。クラスにイスラエル系のかわいい女の子がいた。その子がどうもその大男になついているようだった。なにやら後をついてまわっている。自分もすこしその子に気があったので、なんだ、あの大男は、けしからんと思ったのだ。実際には車をもっていない J に、彼女が便宜をはかっていただけかもしれない。彼女は色の醒めたポルシェにのっていた。なにか蝶々が空をまっているような子であった。見かけも精神もである。自分もその後、その子とデートしたことがある。ただ、こちらはいっしょに郊外の庭園に花を見にいったりしただけだ。一度、彼女の家にも行った事もある。歯科医という白髪の父にも会った。その家で,自分はかなりシャイだったようだ。少し心の弱いような彼女が、自分にだいじょうぶかと聞いてくれた。こちらがエスコートしているつもりで、彼女の方が気を使ってくれていた。後の事になるが、通っていた学校に頭をまるく剃った教師がいて、その子の作品を認めなかったらしい。階段を上がってくる教師に、上でまちぶせしていたその子が白いペンキを一缶、どろどろと頭の上にぶちまけたとか聞いた。教師は別に腹を立てたわけではないらしいが、結局,ある日からその子は学校にこなくなった。その後の彼女の事はわからなかった。

              それで、どうして Jと親しくつきあっていたのか、今となってはよくわからない。自分も Jの住処に近い丘の上に住んでいた。彼の住処と自分のいた所の真ん中あたりに黒人のオペラ歌手が住んでいた。オペラの仕事は毎日あるものではなく、日頃はステンレスの溶接という技術を要する仕事をしていた。その彼がその辺りのコミューンの代表者であった。彼の家は開放されていて、何時も何人かの女達と男達が住んでいた。そこは Jの応接室でもあった。その家では絵は懸けてないが,家の壁が全部キャンバスとなっていた。住人、訪問者が描きたいものを描いていた。どういう絵かというと,ドラッグ系の悪夢、良夢の終わりなきブクブクであった。沼の底からわいてくるあのブクブクである。男女たちは結構みんなはだかで暮らしていて、そのままの姿で壁に絵を描いたり、集まってお茶を飲んだりしていた。自分もよくその家で飯をくった。テーブルの向こうに女達のおっぱいが六つくらい並んでいたりしてみょうだった。オペラ歌手は全くゴリラの体型で、足が短く上半身が盛大であった。不思議な事に裸の彼を見ると珍が膝まで届くほどのもので、足が三本あるくらいにみえた。彼はおだやかな性格で、理知的であった。頭もよかったが、珍もすごかった。歌は何度も聞いたが、うまいのかへたなのか、自分にはわからなかった。Jはその家ではやはり欠かせないメンバーだった。彼らの絵もブクブクであったが、J の吹くハーモニカもブクブクであった。「ブークブク」と聞こえた。その家では男女いったい誰と誰がカップルなのかよくわからなかった。それは日毎の流動的なものだったのだろうか。

              ヒッピー革命は,性革命でもあった。自分の育った日本のカルチャーではまだ、性は商品であった。良い家の娘は良い家に貰われていく。良家の娘は身を慎むかわりに、それなりの相手との将来が約束される。しかし、良家の娘でも性欲はあるし、男を言葉だけでなく言葉以外であれこれ見定める権利はあるはずだ。ヒッピー革命はそのような昔からの、性の経済というか男女間の欺瞞を不潔とした。男女がなにやら平等になった。経済と性が離れたわけだ。ではラブが性交の条件なのか。それもよく考えればどんなものだろう。ラブというのは現在形のふくらんだ認識だけであり、明日の朝にはバブルがはじけているかもしれないのだ。それではいったいどうすればいいのか、契りたい相手が現れれば、男女とも正直に「そもじと契りたし、、」と正面きって伝えるのが一番正直ではないか。当時はそういった時代だった。

           女達が自分の性欲,あるいは性的興味を素直に表立たせることはそれまでのカルチャーでは、限られていた。勿論ローマとか,その他の成熟した貴族、ブルジョワ社会ではあたりまえの事であっても、庶民には浸透していなかった。また、それまでの性における独占性も,疑問であった。つまりラブとか気楽にいうけれど,ラブには相手を拘束する権利が付属しているものなのか。ラブの名の下に相手が次ぎにいく自由を束縛できるものなのか。ラブがあればこそ,その相手の性的、精神的自由を認めるべきものであるかもしれないのだ。あの頃の性の量的緩和の良否はわからない。デザイン的なもので「やりたい」と思うのはどうも男の方で,ゴールキーパーは女側が多いようだ。太古の時代から男達を猟に行かせる為に女達はその性を利用したという。それで、他の動物と違い人だけ年中性交するようになり、そのコストとして自分達で多くの体の病の原因を作ったという。年中発情型は人の宿命となり、良否にかかわらず今に続いているのだ。人はデザイン上、慾袋をぶらさげて生きている。しかし、ただなまの慾だけの男は子供あつかいされた。犬や,猫とおなじくらいの行動様式しか知らぬものというわけだ。女達を渡り歩くだけの「光源氏」のような男も軽蔑の対象となる。光源氏の立場に惚れて、そのコレクションになってしまう女達もなさけない。そこにどうして美があるのか。ものの哀れでなくて社会の哀れなのではなかろうか。

 

              J は黒人だから、社会からはまだまだ、差別されている様子もあった。特に白人警察官などの対黒人警戒感はあからさまだった。ある日、自分は Jを乗せ車で何処かに行っていた。ストップサインで止まらなかったとか因縁をつけられ警察官に車を止められた。しかし、ストップサインでは十分に止まっていた。Jの方は車から降りるように命じられた。それだけでなく警官達がかれの大男ぶりを見て恐れをなしたのか、歩道にうつぶせになるよう命じた。両手両足を拡げさせられ、身体チェックである。彼を乗せていなかったら、車を止められる事はなかったであろうし、歩道で大の字になれといった、おおげさないやみもなかっただろう。当時のアメリカで黒人である事の現実を見せられた気がした。

              Jは自分達と一緒に卒業しなかった。学校の備品である道具を、たくさん家に持っていたという事で問題になったらしい。金持ちの息子が同じ事をしたのなら、「いや申し訳ないのう、、」ですんだのだろうが、彼の場合は盗難とされたらしい。こんな調べは学校でも密かにやるから、彼が追放された事は誰も知らなかった。学生達に対して、学校からの聞き込みもなかった。自分も彼の家にあった彫刻刀等つかったことがあるから同罪みたいなものだ。学校から「拝借」していたものだったのだ。J が金の為に働いているのを一度も見た事がないから、違う話しで、だだ学費が尽きたという事だったのかもしれない。

              J 不機嫌でもなく、テキサスに帰る事にしたらしい。アートの学位等、らくだの屁ぐらいとしかみえなかったのだろうか。テキサスまでバスで帰っていく様子だったので、それまで自分の乗っていた車を進呈する事にした。そのうち買い替えようと思っていた車だ。彼はそれに乗りテキサスに帰っていった。彼はその後、その車のエンジンだけは優秀だったので、はずして漁船のエンジンとしたという。そのエンジンを使い、メキシコ湾でながいあいだイワシをとっていたとか聞いた。