女ぶみ  (これはエッセイではなくて小説)

 

走辺憲史

 

              茶々は気弱な、運命に流されているといったような女ではなかったらしいという、最新の研究がある。徳川美術館で、ある古い櫃からの新発見があったらしい。茶々から、妹である徳川二代将軍秀忠の妻、お江(ごう)にあてられた内密の書が何点か見つけ出されたという。封をされた文箱がいくつか大型の櫃の二重底に秘められていたらしい。血のつながった姉妹だけの間の、秘密の女ぶみといえる。江戸時代以降、農政を基本とした徳川政権のもと、日本人の性格がそれまでより一段と疑り深い、隣を探るような、卑小なものになっていったという意見がある。安土桃山の頃の海外との交易をしていた日本人達からくらべれば、そうなのかもしれない。つまり茶々の時代の女達は、昔とはいえ、もっと溌剌と、鷹揚、果断であったのかもしれない。

              羽柴秀吉が目上の将であった織田家家老、柴田勝家を越前北ノ庄城に滅ぼしたのは天正11年の事であった。勝家の妻であった信長の妹、お市の方は城とともに自尽したが、その娘三人は助けられ、秀吉の庇護下におかれた。母、市に若年よりのあこがれを抱き続けていた秀吉は、その長女の茶々を自分のものにしようと狙ったという。茶々にとってみれば、秀吉は自分の幼い頃、織田家の小谷城攻撃担当官として、実父、浅井長政を死にいたらせた男である。そのおり、信長は、同盟関係に背いた茶々の父浅井長政がよほど憎かったのか、長政の頭蓋を杯に加工させ、それで酒を飲んだという話もある。茶々の叔父、信長のやった事である。茶々の父長政は、普通ありえない死後の狼藉まで受けたのだ。秀吉が浅井の城を攻めたのは信長の命であったかもしれぬが、柴田攻めの時は、秀吉自身の必要性あるいは意思であったといえる。茶々にとり、秀吉は、北ノ荘城で母、市をその再婚先にて火の海の中に自尽させた敵である。茶々は城を落ちつつ、母、市と義父勝家の、今まさに燃えつつある城の劫火を見た。

              この時、茶々は17歳であったという。すぐにしかるべき家に嫁として迎えられてもよい年頃であった。秀吉の妻、寧々は秀吉に何度も早々の縁組みを促したという。しかし、茶々は三年の間留め置かれた。秀吉にしてみればこの幸運をてばなしたくはなかった。ほかに女なら幾らでもいるではないかと茶々は自分の運命の悲惨さを思った。しかし幾ら己の運命をなげいたとて、状況はきびしいというか、ばかばかしさというか、どうにもあらがいようの無い様子であった。勿論、茶々も母のように自ら死を選ぶ選択はあった。無心になればおのれで首に刃を当てる事も出来ただろうけれど、まだ、大人とはいえない茶々には、自死という決心がつかなかった。

              そうこうしているうちに、ある考えが茶々の頭に浮かんだ。ここを人の世だと思えばこそ、己の悲哀も身にしみる。しかし、もしそうでないのなら、悩みは違う。それは「さる」と呼ばれていた、秀吉のてかてかした額を眺めるともなく眺めていた時の事だ。つまり、自分は猿山に誘拐されてきた、人の娘であり、猿山の事は猿山の様にしかいかないという事だ。秀吉という猿には「ねね」と呼ばれる古猿の女房がいた。あれも猿だと思えば、どうだろう。日々の生活も、整合性が出来てくる。そう思って見れば天守を持つ城郭の外見や、家来どもの動きはまったく猿山である。猿の手下どもには猿の不義、不徳をいさめるほどの人もないようであった。これはどうも、人の世ではない。こんな年より老いた、はげ猿のために我をせめ、この身を死に追いやるというのはあほらしくなってくる。若いこの身がもったいないではないか、かわいそうではないか。

              三年たった天正14年、茶々はすでに二十歳となっていた。ある日、女中を通じて、関白がお渡りになるという知らせが来た。関白か何か知らぬが、そこに現れた老人は夜着だけになると、色黒く貧弱な体躯のすすぼれた物体であった。生き物としての品位がなかった。「かんぱく」が全く無意味な音に聞こえた。口の中に黄色な歯が何本か欠けていた。長年の戦場での足軽生活で当時流行っていた性病を病み、この男に子種は無いともいわれていた。老人は身を寄せてきて、なにやら困っているようであった。これが女を数限りなく序してきた男の様か。その男のなしたのは、茶々から見れば、済んだのか済まないのかもわからないような、いわばいいかげんといえる所作であった。普通ならそこで夜を過ごすものなのかもしれぬが、秀吉は恥じたのか、それで充分であったのか、夜着をかきあわせ、退出した。一人で手足をのばしてゆっくり休みたかったのかもしれぬ。

           お江あての秘文はこのあたりから、俄然面白くなる。翌日の朝の事である。茶々は邸内の観音堂にこもった。当時、観音信仰は、庶民から上の者まで、めずらしい事ではない。親の敵である男を夫に迎えたのだから、姫の心は平安なものではなかったろうと、目頭にそっと手をあてる女中衆もいた。観音堂まで共をしたのは二三人の女中だけで、姫が娘の頃から付き添っている者だ。女中達はみんな近江出身である。女中達のうち一人、むめとよばれている者だけ観音堂内まで茶々の共をした。むめだけは一人、後の雇い入れである。少し説明がいるだろう。むめも生まれは近江という。小堀遠州の郷にちかいところである。一説にはある集落の寺侍の子とも言われている。寺侍とは言っても、侍の形になるのは一年に何度かで、あとは寺の領地を耕し、与えられた小さな家の裏で、おのれの家族の食べる野菜等を作っている、普通の百姓とあまり変わりはない家であったようだ。その父は文字が読めたので、時には僧のまねごとでも出来たはずであるが、それは好まなかったようである。寺侍は、ひとりだけ子に恵まれた。その子は大切に育てられ、かなりの教養と武術も身につけさせられたという。

              むめは年頃になってくると、衆に目立って美しくなった。ありきたりの質素なものを身につけていても、姿形のたおやかさは隠しようがなかった。美しさでだんだんと、あたりの若者達のなかで噂がたつようになっていった。むめの運命が大きく変わったのは、ある旧浅井家の侍からの訪問をうけたときからである。親者が大阪城で、茶々の縁者として碌を食んでいるという。侍の話は簡単で、茶々の囲りに近江人を増やしたいということだった。それで、美しく、才ある者達をそれとなく探していたという。この話は時をおかずにどんどん進み、むめは、まもなく城にはいることになった。城で上級の女中に呼ばれ、顔、人柄など実験された。その時、ふすまの向こうに人影がふと見えた。あとであれは石田三成ではなかったろうかと知らされた。三成はいわば、近江閥の長であった。

              話を観音堂に返すと、観音の前でいわば人払いをすませたあとで、むめが茶々に近づいた。それから茶々の着ているものを、やさしくはぎ取っていった。肌を撫ぜ、自分の唇をあちこちへと這わせていった。そして、むめも己の帯をほどいていった。美しい両胸があらわになった。ここから先は説明が難しい。一見、それは娘二人の愛撫の姿にみえる。しかし、むめの下半身には男にあるべきものがついていたのである。両性具有はそんなにまれなものではなく、人のうち何人かはそのように生まれるという。そこは観音堂である。観音は苦境にある人々を救う菩薩だ。そして、観音は男の姿で現れたり、女の姿であらわれたりする変幻自在の菩薩である。茶々が一朝こもり、観音に抱かれ、祈り、瞑想に入るのは自然であろう。むめは、茶々に朝夢のごとき時間をあたえた。

              むめに関する事はどこまでが三成の謀であったのだろうか。勿論、今となっては事実は探りようがない。三成は無関係であったのかもしれぬ。茶々の側近の女中の中に秀吉の行為を許せぬ者が居て、策を提したのかもしれぬ。どちらにしろ、これは茶々の承諾がなくてはなし得ない事である。あるいは茶々が自分の運命にあらがおうと、自分から女中を指示して仕組んだ芝居事かもしれない。女ぶみの文脈からはその可能性も読み取れるという。秀吉は理不尽にも支配者、そして老人の我執で、若くて血の尊い娘をものにした。しかし、観音の慈悲で茶々がもしも秀吉の子をなしたらどうなるか。豊臣政権全部を喜劇の冥土へと叩き込む事が出来る。女にはそういう復讐をするという手段があるのだ。茶々は、ジョークを好む、そして自分に対する不正を許せぬ、溌剌とした女であったのかもしれない。

              茶々は若く健康ではあるが、美しいといえるほどの娘ではなかったともいう。いくら秀吉には美しく見えたとしても、美人というほどではなかったらしい。秀吉の子という資格のものが生まれ、秀吉に全然似もしない、秀麗な子であったらどうなるのか。むめの美しさは心配の要因ともなるが、茶々はわりに平気であったようである。子のかわいさをほめられれば、それを喜ばぬ親はいないだろうし、「さすが茶々殿のお子」という世辞をとなえさせれば、秀吉は顔をくずして喜ぶだろう。もしも、疑いが生じ父親を詮議しようにも、茶々の周りには生まれる子に似た顔の男は居ない。秀吉が茶々を訪れるたびに、翌朝、茶々は観音堂にこもった。そうして文禄二年、茶々はその後の秀頼となる、お拾いを生んだ。

              では、お江への文には、どこまで書いてあったのだろうか。勿論、あまりあからさまな事は書けない。しかし姉妹の事だ、秀頼があの男の子ではないのだという事は婉曲ないいまわしをしなくても述べる事が出来るだろう。お江は「さすが」と笑ったであろう。ではそれを自分の嫁ぎ先の徳川方に告げるべき事と思うだろうか。いや、男達は男達の世界で完結していればよいのであって、女の世界を、みんな覗かせる事もない。お江は胸に秘めておく事にした。そして、お江も姉に対応してある策略をもくろんだらしい。

              お江からみれば、姉は秀吉に無理矢理、飼い置かれ、狼藉を受けた被害者である。ただその子は、笑える事に豊臣の子ではない。血のつながり等まったくないのだ。これでは徳川に、滅ばされる理由はない。大阪城を焼き毀ち、豊臣の残党を一掃するという政治的、表の理屈はわかる。ではこの場合どう処置すればよいか。戦闘になった時、茶々も秀頼も城内にいたこととして名目上死んでもらえばよい。また、城には秀頼の妻である、千姫もいる。千は攻撃側の大将、秀忠とお江の娘である。お江からすれば、どういう観点から見ても、親が世間を動かして、大軍をつのり、その娘を大阪城にて焼き殺すというのはなされてよいはずがない。なにか、おかしいではないか。手だてはある。大阪城での、セレモニーとしての東西の終焉戦はやむをえない。家康にとっても豊臣という将来の災禍を除くのは悲願である。戦闘中、姉である茶々家族は、城にいることが必要だ。しかし、実際には戦闘の始まる前に、しかるべきところに退避させておくよりしかたない。戦闘が始まる一月くらい前には、めだたぬよう城から消えさせておこう。これは徳川の家長であり全軍の長である家康にはいえない。しかし、夫である秀忠の性格はお江にはわかる。娘をあぶり焼きにするような男ではない。お江は秘密裏にうごいた。舅の家康にはあくまで隠匿せねばならない。

              秀頼は武家でもあったが、関白という公家でもあった。公家としてあつかえば、大阪で火の中で焼くという事までしなくてもよい。また妻、お江の言うように秀頼が豊臣の血筋でないのなら、なおさらのことである。秀忠は秘密の守れる腹心の者を呼んだ。茶々を猿山から救うための手段を指示するためだ。千だけでなく、茶々、秀頼まで救えと言えば、家来は驚くだろう。忍びの者を手配し茶々や、それぞれの者の影武者をたてさせた。影武者達は城に火が回る前に、その場からうまく消える事だろう。どうせ、城の金蔵等の管理のために、数百の忍びの者はすでに城内に手配してある。家康からは何度も馬鹿扱いをされた秀忠であるが、そのうごきは素早く的確であった。

             

           後にお江の子、福が後水尾天皇に嫁したとき、修学院からあまり遠くない土地に、茶々、秀頼といった年格好の親子が、公家らしき庵をかまえており、時々、修学院とも行き来があったと、伝えられている。修学院では季節毎に茶歌の会などが催されていた。そこには京の文人達も出入りしたが、福のほんの親しい人々も招かれていた。江戸にいる福の母、お江のうわさもそこでは語られた。ただ秀忠の娘、千は秀頼とは夫婦別れさせられた。千は別の人生を歩むより仕方なかった。千にとって、なぐさめになったと思われるのは、秀頼の生存は知らされていたということだ。

              こうして歴史の裏には女達だけ知る別の歴史があったようだ。女達といえば、秀吉の正妻、寧々はたいへん聡明な女性だったという。寧々にもその親友、前田家の松にも、秀吉に子種が無いという事ぐらい、二人の間では了解済みの事であったという。とすると、この茶々のまわりの茶番劇をどうとらえていたのだろうか。この二人も女として、茶々がやったであろうなんらかの工作を憎むより、ある程度好意的にとらえていたのかもしれぬ。寧々、松にとっても、茶々はかっての主筋の姫なのである。同性としてある程度の愛情があったのかもしれぬ。

              むめについては、かなり早くに、目立たぬようにお城さがりをさせられ、茶々の生家である旧浅井系の身分のある武家へ嫁として迎えられた。そこでむめは幸せな後生をすごしたという。お江は周知のように、江戸将軍家の正妻であり、また天皇家に娘を嫁に出す事により、その外母となった。女としてはこれ以上の栄誉はないだろう。

             

              白州正子に「両性具有の美」という著作がある。古事記、万葉集、源氏物語、新羅花郎、西行、稚児絵巻、能楽、芝居等々をとおして日本古代からの性の両義性というか、あいまいな部分を探っている。日本武尊は女装して熊襲をせめ、神功皇后は男の姿となり、新羅をせめたという。木曽義仲の乳母子である巴御前は両性であったいわれているそうだ。日本の古代からのそういった曖昧さを、「なるほど」と思うか、キリスト教のように「罪」あるいは「けしからん」ととらえるか、人により色々であろう。