頭の中の人生

 

走辺憲史

 

           ギロチンというのをお聞きになった事があるだろう。日本語の外国語表記はどうも明治以来,実に雑であり、時々深いため息をついてしまう。ロシアの独裁者をプーチンという。あれは 「チン」ではなくて「テイン」である。似てはいても,同じでない。ギロチンも また 「チン」ではなくて 「テイン」である。近頃よく聞く、モチベーションはモーテイヴェーションである。「餅ベーション」とは何の事であろうか。

           それで、ギロテインとは何かというと、人の首を落とす道具である。縄か紐で大きな斧の刃のようなものを上に高く持ち上げる。刃の落下を支えるために左右に板で作った溝がある。上の縄を外せば、溝にそってまっすぐ、重みのある刃が落ちてくる、その落下する力で、下の方に差し出されている人の首をストンと胴体から切り離す。フランス人の好きであった処刑具だ。見物人からよく見えるように、だいたい、高い処刑台の上に人が載せられる。その台の片方に壁がある。そして壁には処刑される者の腰くらいの高さに首を突っ込むほどの穴がある。そのあけられた穴を通して、今から首を切られる人の頭、顔が出ている。これは遠くから見ている民衆に親切な装置である。そのうえにつり下げられた鋭い斧の刃が、時間がくれば落ちてくるだろうという期待をうまくあおる事ができる。それに切られた首は、まえのほうにころりと落ちるから、その手順が非常に理解しやすい。首が落ちたという事は処刑が済んだという事で、この人はもう生きていないと言う事だ。目的と終焉が理解しやすい。公共の処刑法として、そのあっけらかんとした明確さが愛されて来たのだろう。

              このギロテインが,なぜこの遠くはなれたベトナムにもあったのかというのは、自分にも皆目わからない。ただ,歴史をざっといえば日本で言う明治20年に(1887)フランスが中国から宗主権をうばいフランス領インドシナを設立した。それまでのグェン朝は存続したが、ベトナムは正式にフランスの植民地となった。その40年前にはフランス軍艦によるダナン攻撃があったり,フランスもベトナムの占領のために長く色目を使ってきたわけだ。そして1954年フランスがついにあきらめベトナムに独立を許す。ベトナム軍にデイエンビエンフーの戦いで、がちゃ負けしたためだ。

              自分はベトナムで生まれた普通の農民であった。フランス人のプランテーションで働いた事もある。ほんの少しばかりのフランス語ならわかる。どうして官憲に捕まる事になったかというと、放火殺人の罪を問われたためである。放火殺人の罪と言っても殺されたのはベトナム人の夫婦であるから、普通、フランスの官憲が出る場合ではなかった。そのあたりの事情はわからないのだ。かすかに思い当たるのは殺された夫の方が、ある有力フランス人のプランテーションで働いていたという事位だ。そのフランス人が、自分がせっかく飼い慣らした男を殺されたと怒ったのかもしれない。

           ころされた夫婦とは同じベトナム中部の小さな村で一緒にそだった仲である。妻も夫も、自分と同じくらいの年頃で、子供の頃からの遊び仲間である。いつも親しくつきあっていた。ある日,二人の家に別に用も無かったのだが,立ち寄ってみた。戸口で声をかけたが返事は無かった。いつものように裏にまわると台所あたりに二人とも殺され、倒れていた。念のため体に触れたが,脈はもうなかった。

打撲死か,あまり血はながれていなかった。自分は動転して、誰か呼ばねばと、多分大声を上げながらそこから出た。そのとき台所のかまどの火に、何かかかっていたのに気づかなかった。自分が逃げていく後ろで家に火があがっていった。

              自分はそのうち,捕まり、軍の倉庫のような所に入れられた。簡易裁判のようなものもあった。

村人が何人か、この男が逃げるのを見たと証言した。その結果,フランス兵達が,すぐに処刑するということに決めた。別に見物人を入れるつもりはなかったようだが、兵営の一画でギロテインを使ってみようと決まったようだ。ぐうぜんそこに設備があったからという,ついでの発想のようであった。兵士というのは時に非常に退屈なものだから、いい加減というか,あまりうれしくない発想をするものだ。

              自分がこの殺された友人夫婦に恨みをもっているとか、金を借りているとか、なにやらその他の、殺さなくてはならないような理由があるかなどという疑問は、どこからも出なかったようだ。殺しと火事があり,そこから叫びつつ出て来た男がいたという、あまりにも簡単すぎる図式にのっているだけである。自分には彼らを殺す理由はどこにもなかったし、いつまでも一緒に生きていく仲間だと思っていた。村人はみんな家族のようなもので、互いの性格や好み等,よく心得あった仲だった。

              自分たちが六歳くらいの子供の頃の話しである。ある日、子供達が河で泳いだりしてあそんでいた。殺された 妻である彼女と、大人にはいいぬくい遊びをした。つまり前をなめあった事がある。言い出したのは彼女のほうだ。たぶん、ほかの子供達はまわりにいなかったのだろう、彼女が自分のまえに立ち、ここをなめてみないかといった。面白そうだから自分はすぐに賛成した。彼女は立ったまま,足を少し広げ、着ている物をすこし持ち上げた。自分はそこで、ひざをついた。遠くで見るのとちがって、結構大きく見えるまあるいものがそこにあり、自分はなめてみた。なにやら泳いでいた河の味がして、自分はそばにぺっとつばをはいた。次は彼女の番で、自分が立ち,彼女がひざをついた。彼女のくちが自分のものをのみこみ。すこし暖かかった。しかし自分のもまた,河の味がしたのだろう、彼女もそばにペッとつばをはいた。それは其の後、ふたりのかすかな秘密となり、誰にも話す事は無かった。まあ,忘れていたようなことなのだが、自分がこうして彼女の殺人犯となるとあの頃の事も,遠く懐かしく思いだされるわけである。口の中のあの時の味まで思い出されるようでもある。

           話しを続けると,自分の有罪が決まってから、二日目くらいに書類が整ったのだろう,処刑の日がきまった。ギロテインの台は汚れやすいものだから、ざっと水洗いなどなされたようだ。ちゃんと刃が落ちてくるかどうか、なんどか揚げてはトーンと落とす実験もやっていた。ここは熱帯なので,どうしても湿気で木がふやける。苔も生える。落下の際,途中で止まらないように木に余分の油をぬったりしていた。自分のいた所から,全部みえたわけではないがそのくらいは様子でわかった。

              その日の朝,自分は外に連れ出された。少しばかり階級が上のような,若い兵が,指示を出していた。両手を背中で縛られた自分は,二人の兵に支えられ、十段ばかりの階段を上がっていった。その高さからは塀の向こうの,わが村が少しばかり見えた。台の上は狭く,数人の兵と,自分だけでいっぱいとなった。一人の兵が自分にあの穴の中に,頭を差し込むようにと介添えした。今まで何度も使われてきたのか,この中古のギロテインの穴回りはなにやら油汚れがついていた。なにか不潔な感じだった。汚れに顔を付けたくないので、自分はいわば進んで頭を急いで差し込んだ。そこで気がついたのだが、元々このギロテインはアジア人サイズに作られていないという事だった。豚のように大首の、太りに太った,西洋の中年男でも,問題なく頭が差し込める大きさであった。せめて,サイズくらい正しいサイズの処刑台で,処刑されたかったと、涙がでてきた。涙がでてくるとしかし、向こうに見えていた村がくもり、見えなくなる。これは不味いぞと思った。顔でも拭いてくれといいたかったが、そんなフランス語はしらなかった。銃殺の時は普通,顔に白い布等かけるようだが、ギロテインの場合それはなかった。それともここにいる,フランス兵の下っ端達は,そんな流儀に通じていなかっただけかもしれない。自分としては袋はかけられないほうがよかった。自分の後ろに立っている二人の兵は,自分が頭の位置を勝手にバックさせないように,一生懸命うしろから自分を壁に押し付けていた。

              次に下にいる下っ端達の上官が,片手を上に上げ,そして結構素早く,今度は下に降ろした。

そうするとうえから、時々かすれる音を立てながら,刃が飛んで来た。下からは見えなかったのだが、これは刃を斜めに切ったものでなく、ただ水平な刃であったようだ。自分の首は斜めに切られるのではなく、まったく水平に切られた。ほとんど抵抗等無く、骨にもあたったのか,あたらなかったのか、頭が体から離れていった。そして、離れた頭は下の泥の上にどすんとめり込むのではなくて、途中に受け皿というか、古い軍用キャンバスが張られていて,1メートルばかりの落下で受け止められた。

              その後,どうなったかというと、体と頭は少し離され、とはいっても5メートルばかりのようだった、ヤシの葉を何枚かひいた上に横たえられた。勿論,この辺りは自分の想像で話している。こういった記録がどこにも無いようだから、みなさんは理解されていないようであるが、胴体から離された首が,実際にはどのくらいその後生きているのか,あるいは意識があるのかといった問題である。

              自分の場合では,首が落とされた後、半日はもう経っている。自分でそういう気がしている。もしかしたらまだ30分くらいかもしれない。心臓から新しい血と,それによって運ばれてくる酸素とかもろもろ,それはもう来ていない。来ていないからといって、脳内の血がいっせいに吐き出されるとか,死んでしまうわけではない。これには勿論個人差が大きくあると思うが、しばらくは,そして少しばかりは,脳の機能は続くわけだ。そして,省エネ型の脳であると、自分のようにこうしてしばらく物事を考え,整理する時間があたえられるわけだ。よくしたもので,切られたショックというのは筋肉的に大きいようで、その大きさ故にというか、首のあたりの痛みはあまり感じていない。目は勝手に閉じてしまったようで、何も見えない。耳はなにか鳴っているから、聞こえているのかもしれないが,たぶん何も聞こえていない。口は勿論うごかない。喉が非常に乾いているようにも感じるが、これも定かではないというか、間違いかもしれない。鼻がまだあるのは解っているが何もにおわない。それでは頭痛がするかと聞かれれば、それもあまりない。最後にこの脳内だけになってしまった自分が、残された幾ばくかの時間を過ごす。実際にはこの立場になるとものを考えるというほどでもなく、ぼんやりと薄明かりのなかに留まっているという感じだ。それは暗闇ではなく、半分おめでたいような薄明かりである。絶望のねじれもない。悔恨の腐敗体もない、メモリーの混沌もない。まあ,もう一度言うと、半分おめでたいような薄明かりである。

              この状態にある,自分の外観と言うのは勿論自分には想像出来ない。自分は沈んでしまった潜水艦の中にいる乗務員のようなものだ。外から見て,どうなのか。自分が何も知らないまま殺された純良な犬のような顔をしているのか,あるいは嫌な経験をしたなと,いまいましそうな顔をしているかとかである。想像では,あまり恨めしそうな様子はないように思う。まあ,目が開いていて,らんらんと光っているとかあれば,それはそれで面白いと思う。それともそこには、潜水艦の乗務員の想像外の外見の変化でもおこっているのであろうか。両眼球が外に飛び出てしまうというのは聞いた事ある。

              まだ,君には気づいてもらっていないのかもしれないが、これは〔シンプルライフ〕という

エッセイ集の一部なのだ。体から切り離された自分にはもう,この世もないし、残された時間もない。多分、ろうそくが消えるように,生命が音も無く消えるのだろう。あるいは昔の電気スイッチのように、パッチンと音でもするのだろうか。エンデイングがそのどちらであろうと,まあ,今の自分にはどちらでもよい事だ。「ほな、行ってきます」、と出来たら明色で最後を迎えたい。自分は19歳までしか生きなかったが、91歳まで仮に生きてみたとて、あまりかわりがあるようには見えない。19年でも,永劫に長いと言えば長いのだ。そこには人並みの苦労,楽しみ,笑い、みんな詰まっていた。〔シンプルライフ〕が何をさすのかしらないが,今の自分にはその検索をする興味は無い。自分は今、最後の時間を残った血だまりのなか、この頭蓋のなかですごしている。これは、ほんの小さな血だまりなのだろう。もう少しばかり、この頭蓋にいることになるのだろう。頭蓋の天はべつに見えない。温度は解らないのだが,少しずつ冷えているのだろうか。この 今の 自分の状態はしかし、かなり簡素な状態だと思わないか。中国の竹林の詩人達の小屋より,もっともっと狭いところに生きている。

この窮屈な所で、最後の薄明かりを楽しんでいる。

 

さざなみのあふみのうらをくだりしはよみじににたりきりさめのよる。