旅ゆけば (かっての風景)

 

 

走辺憲史

 

           宮尾登美子作の「天樟院篤姫」に江戸期の終わり篤姫が薩摩から江戸までどのように旅をしたかが詳しく書かれている。八月の二十一日に薩摩を出て、京に寄り、江戸に着いたのが十月二十九日と二ヶ月以上かかっている。将軍家へ輿入れする篤姫のために選ばれた旅のコースとその方法が興味をひいた。

              それは嘉永六年の事だったという。1853年の事で、その六月にはペリーの黒船四隻が浦賀に来ている。中国では太平天国の乱が起こっており,その十三年前がアヘン戦争である。ロシアではクリミア戦争がおこっていた。そしてその、四十年前にはイギリスで蒸気機関車が発明されている。篤姫の義父,島津家当主成彬は西洋の技術をとりいれるのに熱心であった。自前で反射炉、溶鉱炉などをつくり、嘉永四年にはジョン万次郎を保護したり、洋式の海軍,蒸気機関など研究している。1854年には洋式の帆船「いろは丸」そして洋式の軍艦「昇平丸」を薩摩の手で完成させている。篤姫上京の次の年だ。

              宮尾登美子氏によると、篤姫の旅は島津本家の鶴丸城を出て、鹿児島市内の弁天橋という船着き場から船に乗った。そのコースはいまから考えたらどうも腑に落ちない。鹿児島市は東に向き桜島と対峙している。船は真南に行かず、桜島の南側を南東に走り対岸の垂水へと向かった。海上15から20キロくらいの船旅である。鹿児島湾内の事だから小舟であったろう。ただ付き添う人数は57人ばかりいたらしい。小舟数艘でもつかったのだろうか。この船旅の途中,南の方角に篤姫が幼時をすごした今和泉の山々がくっきりみえると書かれているが、晴れた日には鹿児島湾の南端に近い指宿市あたりに今もある今和泉という地名のあたりまで見えるのであろうか。地図によると海上30キロくらいだろう。

              大隅半島の垂水に着いてから今度は陸路である。志布志を通りと書いてあるが、現代の地図では垂水からの山越えの道はあまりめだつものはない。現代、主な道路は南の鹿屋のほうにまわり、それから東北方向に串間市をめざすようだ。垂水から串間への直線距離でも50キロ以上ありそうだ。ただ大隅湖という湖の側を通る山道のような道はある。自分は鹿児島を知らないので、このあたりは地図からの想像である。それだけの距離を篤姫は駕篭、侍女,家来衆は歩いていったわけだ。志布志を通り、串間の福島からまた別の船に乗った。そこで違う船が待っていたわけだ。

              船の名は島津家の紋をつけた「南海丸」という船で姫達の部屋は畳敷きの結構広い部屋であったとある。何トンくらいの船であったのだろうか。家来衆57人と船員10人くらいとすると、長さにして20メートルばかりの帆かけ船がそうぞうされる。それとももっと大きなものだったのだろうか。九州の東海岸を北上しなくても、当時、西海岸を上がるコースもあったそうである。しかし日本海側も荒れるときは荒れるそうで、この時そちらは選ばれなかったらしい。

              志布志湾を出ればそこはすでに太平洋である。太平洋を走れる船がなぜ串間あたりで待っていたのか。鹿児島から外洋船にしてなぜそのまま佐多岬を回らなかったのか。どちらにしろ太平洋を通らなくてはいけなかったのだ。志布志湾から出港すると北に向かって、日南、宮崎,日向、延岡、と日向灘が続く、四国の宿毛湾の対岸あたりから豊後水道へとはいる。 地図ではそのあたりまで200キロばかりあるようだ。 日向灘では篤姫は船酔いに苦しんだそうだ。心ない付きの女中が姫はあまり人前に身を晒すものではないと言い、姫を船室にとどめていたという。

              予定では大阪までひと月の船旅であったそうで、国東、下関で上陸して休み、丸亀まわりだったそうだ。国東ではどこ入港したのだろうか。今なら、別府港や、大分港があるあたりだ。すぐその真西に伊予松山があるのに、なぜ、100キロばかり東になる,つまり大阪と反対になる下関に寄ったのかもわかりぬくい。下関に寄らなければ海路200キロばかりが不要となる。周防灘を回避できた。丸亀を最後の寄港地として,そのまま,大阪にはいり、淀川をのぼり、土佐堀の薩摩藩邸にはいったという。地図で見ると土佐堀というのは淀屋橋のかかっている、大阪中之島の南側を流れる川のようだ。大阪着は十月八日、国を出た八月二十一日からいえば、ひと月を過ぎている。そしてその五日後に京に入っている。京は三日のみですぐに江戸に向け出立している。秋の長雨の降る日で,歩行の女中達は蓑傘をつけて歩いたという。近江を通り、木曽路にはいり,馬籠、板橋をへて江戸に入ったという。こうして二ヶ月以上も船、駕篭に揺られていると、姫というのはその衣装から、髪型だけでも、もう嫌になるほど,疲れがたまるのではないだろうか。

              話しが突然変わるのだが、{トランスパック}というヨットレースがある。これはカリフォルニア州のニユーポートより(ポイント フアーマンより計算)出て、ホノルルのダイアモンドヘッドの灯台の線で終わる、ヨットレースだ。1906年に始まり、毎年やっている。篤姫の時期から50年後の事だ。クラスは基本的に艇が単胴か複胴かに分けられ、それを二人のクルーで動かすのか、多人数で動かすのかというふうに分けられる。水に深く沈まないカタマランのような複胴(multi- hull)のほうが単胴より基本的に速い。レースの距離は2300海里,あるいは4121kmである。今までの記録では、単胴で、2009年に「アルファロメオ」という艇が五日と14時間でフィニッシュしている。複胴では、1997に五日と九時間という記録がある。

              この単胴の記録を時速になおすと、30.7kmとなる。鹿児島市から佐多岬を回り、そのまま東京をめざすと海路約、900kmくらいだろう。トランスパックのスピードで動いたと計算すると、それは29時間位のものとなる。一日と5時間だ。 勿論、現代のヨットは帆も木綿とか麻ではなくて,ケブラーとか使っているし、船体も潜水艦のように密封型で少々波を頭からかぶっても気にならないようになっている。それにしても、篤姫の旅二ヶ月以上と,同じホカケ船で、一日と少しというのはずいぶんの違いである。

              現代のスループ(二枚帆のヨット)と比べると、江戸時代の木造船は一枚帆で、吹く風に向かい間仕切り(ジグザグ走行)してすすむことがかなりむずかしかった。追い風があれば望ましいという船だった。間仕切りがあまりうまく出来なかった理由の一つは、現代のヨットのように和船のふな底にはキールがなかったわけだ。キールは風を西から受けた場合、 船自体が 風と共に(東へ)流れていかないようにという工夫である。船の底に深いひれが付いているわけだ。昔の西洋の帆船にも今のヨットのような水中深くひれのようなものは付いていなかった。しかし和船と構造が違い竜骨があった。船の中心線に人の体で言えば、背骨とあばら骨のようなものがついていて、船の外壁の板をつないでいた。この竜骨を深くすればすこしばかりキールの役をした。また船底に石等重さを加え、船自身を深く沈ませていた。それに反して、和船の底はつるりと平らであった。シナのジャンクと同じである。

              今,主に技術と文化の話しをしている。篤姫が陸上を行くのは人の肩に棒を載せた駕篭というものを使った。それを担ぐ家士にとって平坦な道では,これに車輪がついていたらどんなに楽だろうと思ったのではないか。担がなくても押すだけですむ。それにわんさかと担がれている姫にとってもその内部空間は、たたみ半畳ばかりで,ただ座るだけの空間だ。横になって仮寝をするにしても足はちいさく折り曲げねばならないだろう。うえからの釣り紐でも常に手で持っていないと、右にゆらり、左にゆらり、上下にぼこぼこと、非常に不愉快だったろうと思える。映画のように盛装できっちり正座、髪は姫様髪、そんな格好で、何時間も座れるはずがない。今の娘達だったら、そんなところに閉じ込められたら、トレーナー姿で、両足は窓から放り出すだろう。あるいは屋根の桟でも、蹴り上げてみるだろう。畳敷でなくて内部がせめて角度を変えうる、リクライニングシートだったらまだましではなかろうか。どうして、こんな担ぐ方も、担がれる方も苦痛のかたまりでしかない,けったいなものを考えたのであろうか。こんな物に漆を塗ったり、金をはめこんだりした美術心というのは何事であったのか。

              駕篭が平坦な道ではなくて山道になるとどうなるか。まえはひとり、妙に力持ちの小人にして、後ろは家士三人位にするのか。坂のスロープが変わるたびに,ちがう小人を連れてこないと、駕篭は前後の平衡がとれない。もし、駕篭を前後斜めに運ぶとすると、中身の姫様は背後の壁に押し付けられて運ばれているようなものだ。郵便の荷物のように詰め物をしてくれないと、姫はごろごろ、動き回って大変だ。姫としては「殺せー」と叫びたくなる状況ではないか。駕篭の中でのトイレ用に、「おまる」くらい付いているのであろうが、用を足していたら突然山道になったらどうするか。上の紐に掴まったら、とたんにおまるがはずれて後ろの方に飛んでいってしまう。「あら、おまるや、どこに行きなさる」という状況になる。悲惨ではないか。まあ、、あまり想像するのはやめておこう。駕篭の旅は苦労の続きだったろうと思うばかりなのである。

              歴史をみると,2700年前のメソポタミアには二輪のチャリオット(馬に引かせた戦車)があり、ローマ帝国では四輪の郵便馬車をヨーロッパ中走らせていたという。もちろん、チャリオットもあった。そして1620年頃にはロンドン市内を辻馬車というタクシーみたいなものがはしっていたらしい。ただ、お隣の朝鮮もなぜか日本と似たりよったりで、荷物は背負って歩くというのを長々とやっていたらしい。18世紀終わり頃、動物に挽かせる物流あるいは乗用の車というのは朝鮮には無かったそうである。なにやら、苦労を繰り返すのが苦痛でない部族達が極東には住んでいたようだ。篤姫だって、ロンドンの辻馬車程度の車にでも乗れたら、中で動き回れるし,車窓の景色も楽しめたであろう。退屈なら、侍女達を二三人乗せて、一緒に会話も楽しめた。

 

              こうして二ヶ月以上にもわたる上京の旅をした姫にとっては、もう、結婚すべき将軍が、男だろうが、女だろうが、あほだろうが、狸だろうが、もう気にするべき話題ではなかったのかもしれない。もしも、駕篭にのったのが我々であったらそのくらい疲労困憊、麻痺,朦朧となっているだろうなあという、重ねての想像である。よい方の想像をすると、夏の終わりの瀬戸内の旅は非常に美しかったかもしれないし、秋の信濃路もかくべつであったかもしれない。体力が続けばの話しだが。篤姫はその長い旅がよほどつらかったのか、その長い一生の間,二度と薩摩に帰らなかったという。

              船酔いを治すには簡単な方法がある。それは乗り手として苦しまないで、自分で舵を握ってみる事だ。舵を握れば船のどんな動揺も自分の指先にあるわけである。そのうち、マウンテンバイクの荒乗りみたいに、ゆれも、うねりも楽しく感じるようになる。どうせ島津の船なら、篤姫にも操縦権があるはずだ。篤姫が結婚する為に、黒潮にのって江戸まで 自分の操縦で行ったというのなら愉快ではないか。それも一日と少しばかりで。