道楽と職業  夏目漱石(書評)  

 

 

走辺憲史

 

              この「道楽と職業」というのは夏目漱石全集に入っている漱石の講演記録ということらしい。漱石が新聞社の命で明石で講演した。言葉や態度は漱石なのであるが、小説家だからといって、スピーチまでうまく出来るとは限らない。漱石が話せばこういった事になるという、いわば参考資料として全集に入っているのだろう。これは結構長い公演で22ページばかりが記録されている。

              講演として読めば、視聴者を笑わせるうまさもすこし伺わせるが、漱石がじぶんで言っているとうり、理論整然としているわけにはまいらない。要らぬ弁解があったり、話しが混雑している。それは本人が申しているわけだから、「はい、そうですね」と賛成するより仕方ない。そういった些細な面での評はしてもしかたがない。

              漱石は、江戸の時代とくらべて、明治の時代は随分仕事の種類が増えているのではなかろうか,といったあたりから話しをはじめている。大学を卒業した秀才もこの頃、すぐに仕事がない。このミスマッチはどうすればよいのだろうか,と言うふうに,話は流れていく、時代の風景というのがのぞきみえる。しかし、秀才達にいつかは仕事が見つかるのだと、明治らしく肯定的なところがある。

              それから、仕事の種類による収入の差などについて、これはいったいどういうことだろうかと、思いをめぐらしている。人気のある芸者は高い宝石を買う事が出来、小説家は(自分は)ニッケルの時計をしている。これは世間の需要という事でそうなっているのだろうと、納得して不満は述べていない。だが、スピーチはなかなかエンジンがかからないようで、結構、中だるみの内容となっているようだ。やはり、文筆業者だから、じぶんの書斎で言葉,文章を組み立て構成していくようにはまいらないようだ。しかし講演の最後の方で、だんだん目が覚めてくる。漱石の言葉が明解になってくる。やっと担当の時間をつぶすことに成功して、「さあ,もうすぐ家に帰れるど、、」というところで面白くなってくる。

              一般にいう職業というのは世間が相手である。サービス,商品を受け取る、あるいは買う側があってこそ、それに見合う収入が貰える仕組みになっている。「一般社会が本尊になって,その本尊の鼻息をうかがって生活する」と漱石はいっている。あるいは「世の嗜好に投じる,一般のご機嫌をとるところがなければならない」ともいっている。それに比べて、道楽というのは、「自分の好きな時間に,自分の好きなだけ、自分が興味を失うまで、適宜にやるのだから面白いに違いない、」といっている。

              しかし,ここに道楽なのか,職業なのかわからない、水商売,アート、文学、その他,その他と、なにやら、やっかいな分野が出てくる。漱石はアートがもしも世間の需要をみわたして、これが流行る,売れるというもくろみをもって始めると,不思議にアートでなくなると言っている、一般の職業のように「世間を本尊としては」成り立たない職業なのだ。作家達が自分のやりたい事だけを,自分だけを観客として、自分の好きな方法,手段で、なにやらやってみる。そして、もしもの偶然で、それを世間が認めれば、幾ばくかの銭をもらえる。漱石自身もその偶然で飯を食わせてもらっているといっている。そのあたりの機微はまったくの偶然という事に頼っている。

             

              この漱石の講演は明治という時代背景を後ろにしているから、面白い。明治の人達もアート,文学の成り立ちがたきを感じていた。それを漱石がこういった具合に漱石の言葉で表現した。 江戸も,明治も, 今もおんなじだと納得出来る。 現代は純文学がやりにくい時代だと言う。明治とは少し状況が違う。それは不純文学,読み物達がたいへんな発達をとげ、サービス面で欠陥の多くある、純文学が苦戦しているといった風景だそうだ。軽くて,読みやすく,その上,情報,内容の豊かなテキストが紙面を、そして大気の中を世界中を舞台として飛び回っている。それも,無料で。読者の「がまん」を当たり前としているような純文学的紙面,内容には誰も注意を払ってくれないわけだ。一時代前の文学(らしき)小説等がとろくて,おもくて、読みづらくなってしまったのだ。漱石の小説類も、重くてとろい。漱石は「我が輩は猫」の作者でもある。あれは軽快感がある。しかし、漱石の本領はあの重くて、とろいほうにあるのだろう。そういった重いのを何度も読んでみたが、なかなかのがまんも強いられる。男女の仲とか,親類の事等どうでもいいではないかと思わされたりする。そう思われたら、漱石としてはあてがはずれるだろう。彼が自分では面白いと思って書いた事を、世間では同情をもって迎えないかもしれないのだ。「偶然」が通り過ぎてしまうのだ。それとも,軽くて読みよいものに人々はすぐに飽きて、また、漱石に帰っていくのだろうか。それとも、「タデ食う虫も好きずき」というだけのことなのか。苦くても食う人は食うだろうという事なのか、