青鬼の褌を洗う女  坂口安吾  

 

 

走辺憲史

 

              坂口安吾とは全然ご縁がなかった。「アンゴー」という名前もなんだか妙だし、「安い吾(われ)」というのもふしぎでもある。戦後の無頼派の一人と呼ばれ、1955年に48歳で死んだ。敗戦後、ちょうど十年目である。無頼派の一人、太宰治は,あのいやらしい言葉使いが気になりつつも随分読んだ。檀一雄は「火宅の人」とか食い物シリーズくらいしか読んでいない。だが、アンゴーさんは自分の若い頃、一冊も読んでいない。彼の風俗小説のようなものに目を通した事があるのかもしれないが、あまり興味を持てなかったのだろうか。あるいはあまり性的なものには、目を遠ざけたのだろうか。

              今回改めて、何冊か読んだのだが、彼の興味は「人の本性とはなんだろうか」といったあたりにあるようだ。短命の理由は酒,薬、麻薬の乱用によるらしい。酩酊派ともいえる。酩酊しつつも生活の為、乱作もしたようである。身体が荒れるのと、作品があれるということの因果関係はあるのだろうか。それともあまりないのか。あるいは身を荒らす事によってのみ見える何かがあったのか。

              坂口安吾に「麻薬、自殺、宗教」という16ページばかりの小文がある。当時の事だから、ヒロポンの錠剤、注射、などもやっていたらしい。彼の場合ヒロポンの錠剤は効いても半日といっている。ヒロポンとは大日本製薬の作っていたメタンフェタミンの商品名で、疲れ,眠気をとばす薬として売られ、旧日本軍も大量に備蓄していたという。飛行機乗り達に使わせていたらしい。昭和24年に覚醒剤として禁止されたが、当時日本で50万人以上が中毒患者となったという。坂口安吾はこの小文において、麻薬中毒を宗教中毒と同様に見ている。「すべて、同一系統の精神病者」といっている。麻薬中毒も宗教中毒も同じように幻覚,幻聴がおこると指摘している。

              坂口安吾は、彼の場合ゼドリンは一日は効くといっている。2ミリの錠剤を7つ位飲むという。ウイスキーなどとも混ぜ飲みしていた。ゼドリンとは 聞き慣れない薬だが、武田薬品の作っていたという 要するにアンフェタミンの事らしい。ヒロポンと同じように疲労を押さえ注意力持続の為の薬とされたが、指定外の不法な使用が広まったという。ビートルズもかって使用したというし、力道山も愛好していたらしい。

              坂口安吾はこれらの、あるいはもっと多種の薬とアルコール類とのまぜまぜで、正気を保っていた時もあったのだろうが、完全に中毒していた時もあったのだろう。病院に入院もしていたようだ。それも動機としては良い物を書きたいため、精神をフレッシュに保つためということなのだろうが、なかなか危うい状況のようにも見える。綱渡りである。開き直れば,そこまでやるからこそ作家だともいえるのだろうけれど。

 

              それで「青鬼」はどうなったかというと、出だしが実に良いのである。「私は近頃死んだ母が生きかえってきたので恐縮している」といったあたりからはじまる。東京空襲のおり「私は上野公園へ逃げて助かったが、隅田公園へ行ってみたら、母の死骸にぶつかってしまった。全然焼けていないのだ。腕を曲げて拳をにぎって、お乳のところへ二本並べて、体操の形みたいにすくませて、もうだめだというように眉根をよせて,目をとじている。生きてた時より顔色が白くなって、おかげで善人になりましたというような顔だった。」と書いている。私というのは安吾の話しではなくて,ある若い娘の話しである。鏡をみたら、自分が母に似て来たといったあたりから話しが始まる。母は自分を「品物のように」大事にしたという。母はだれかの「オメカケ」であり、めかけは窮屈な女房づとめなどよりよっぽどましだと思っている女で、娘にもめかけという資格の為の商品価値を最大に保つ事を義務づけていた。

大切にされていても,そこになにやら不純さも見えたのかもしれない、

           この話しは56ページと随分長いのだが、敗戦後の日本で、男から見た戦争体験ではなくて、めかけとその娘からみた戦争体験等をテーマとしている。特に「私」である娘は日本の受けた空襲という大破壊を恨めしい事,つらい事等と思わず、新生とみていた、破壊をさわやかといっていい程のものと思っている。娘は結局母と同じくものゆたかな老人の世話となり、めかけ生活をおくる。相手の男は寛容で、娘が若い男達と遊んで来ても怒らない。娘もとちゅうで幼なじみの相撲取りと深く関わったりする。娘は、ややこしい技巧に満ちたセックスは嫌いで、結局、老人のところがいちばん居心地がよい。「私の男が赤鬼でも,青鬼でも」、いくのが地獄でもどこでもよい、といった感じで話しが終わる。

              結末はあまりおさまりがよくないと思う。空襲と母の話しだけでよかったのではないか。男達から見た戦争と,女達の見た戦争が笑えるほど違うということだけで話しを片付ければよかったのではないだろうか。娘の男遍歴など綴ってもしかたない。ハリウッド映画ではストーリーに関係なくぜったいどこかに男と女の,キスシーン,ベッドシーンをいれてしまう。それが観客へのサービスだと思っている。そういう気遣いはして貰わない方がよほど清々しい。

 

              坂口安吾は彼の他の作品「織田信長」で信長は「いつ死んでもよかったし、いつまで生きていてもよかった。それ故に生とは何ものであるか、最もよく知っていた、生きるとは全的なる遊びである」と書いている。この「青鬼」の娘においては皮膚感としてのここちよさがありさえすれば、あとはどうにかなるのだというたゆたう心があるようだ。リスクの伴わない遊びは遊びではないと大見得を切っている男達と、そうように生きて自分の運命の中にわずかでもやすらぎをみつける女達の立場の違いがもののあわれを感じさせる。男達そして女達にもである。