舟はセルフビルド

 

 

走辺憲史

 

              子供の頃から舟が好きだった。自分の育った島には舟大工もいたし漁師もいた。木造和船の時代だった。木造和船はどれも形が美しかった。出来の良い日本刀のように優美なそりをもっていた。特にまだ木の香りのするような新造舟には子供にもわかる美があった。その頃はまだ,グラスファイバーの舟などは港にはなかった。舟小屋の中でドラム缶に湯を沸かし、その上で一寸以上の厚さはあるながい板を、縄と締め木を使い矯めているとかいった、舟造りの風景は身近にあった。あれをひとつ自分でもやってみようといつもそばで、飽きず眺めていた。面白かったのは舷側に張る何枚かの大板をつなぐ為に打つ銅の平釘だった。三四寸の長さの板のように平らな釘を打つ為にまず打つ釘の角度に木に溝を掘る。そこから釘を打っていくと釘はカーブを描きちょうど次の板のまんなかあたりに入り込んでいく。マジックである。釘を横から見ると,その V –字の左右の角度が変えてあるのだろう。だから,打てば曲がっていく。

              その頃、風で走る荷船はたまに見た。また。釣り船が方向を定める為に舵代わりに小さい帆をはるのはあった。しかし洋風の風で走るヨットなど見た事が無い。そういったスポーツが成り立つ時代ではなかったのだろう。島はあそびの場ではなく、生活の場であった。家には大工道具類はたくさん置いてあったから、自分は勝手に箱から出して使っていた。危ないとか、さわるなとかいわれたことはない。大工のやるような事を子供でもやっていたから、自分の舟もいつか自分で作るものと思っていた。

              自分ではじめて舟を作ったのはアメリカに来てからである。通っていた美術学校の、デッサンのクラスでのことだ。教師が教室の片側に天井に届くほどがらくたを並べて、さあ,これを描けといった。かなりの物質量だったので、それなら大きく描いてやろうと思い、合板(X 8 フィート)を4枚ばかりもってきてその上にデッサンをした。幅5メートルばかりの画面である。描いたのはいいのだが、クラスが終わった後、その始末に困った。4枚の板にまたばらして、さあどうするかということだ。白黒でなにやら描いてあるけれど,まあ,立派な板だ。夏の暑い日だったのだろう、これはぜひボートにしようと思い立った。家にもって帰って、ばしばしと裁断し始めた。裁縫学校でドレスを作るのと同じである。板を切り、カーブとカーブを合わせていくとボートになるわけだ。1/4インチの合板は曲げやすいから、この作業に適当だし、小型の舟なら十分な張力がある。ワイヤースチッチングはやらないで板と板の繋ぎは木のフレームとした。作業は裁縫学校でドレスの胸のカーブを布の裁断で形作るように、同じような事を板でやるだけの事だ。

              当時の日本の美術学校は油絵、日本画、デザイン、彫刻とか専攻が分けられていたが、自分のいった学校ではそういった区別は無く、絵の生徒、彫刻だけの生徒とかいった考え方はなかったようだ。基礎教育は基礎教育だというつもりだったのだろう。技術は一応教えておくから、アートの部分は自分で考えろといった態度であったのかもしれない。全員が石を削ったり、銅像を作るようなキャステイングもした。溶接も、プラスチックの造形もやっていた。木工もしていたし、 グラスファイバー、 樹脂を使い造形するのも、日頃やっていた事だった。舟の複合カーブは結構複雑だが、たいした事は無い。それでどのくらい時間がかかったのか忘れたが、わりにすぐに舟は出来たような気がする。

             

              それは一応、風で走るヨットであった。長さは14フィート、マストも、ブームも作った。舟体はオレンジ色で、沿岸警備隊と同じ色にしておいた。前1/4は波を被っても平気なように蓋をした。四人くらい乗れる。後ろ1/4も密閉式にした。帆を買う金は無かったので、ペンキ屋で売っている、作業用の,そして安物のコットンのシートを買って来て、角から角へと三角形に切った。二枚の帆が出来た。縁くらいは自分で縫った。マストを支えるワイヤーは、ステンレススチールのものを買う金が無かったので、物干に使う安物のワイヤーで間に合わせた。ワイヤーを堅く締め上げるターンバックルも物干用だった。なにやら見たところヨットらしいものが出来た。ただ、その時点でまだ解決していない問題がひとつあった。それは自分は漁舟のあつかいには慣れているけれど、実はヨットには一度も乗った事がないのだった。

           誰かに教えてもらわねばならない。学校の級友に金持ちのぼんぼんがいて、子供の頃、セーリングスクールに行ったとか言う奴もいた。舟はあるから、教えてよ、、とたのんだら、うんうんというばかりで、いつまでまっても来てくれない。ある本当に熱い夏の日、面倒くさくなって、その舟をマリナまで引っ張っていった。材料費100ドルもかかっていないのだから、もし沈んでも,ひっくりかえっても、それはそれでいいのだった。まわりにだれもいない沖までは借り物の古い船外機で押していった。マリナのよその舟と衝突はしたくなかったのである。船舶保険など勿論無いのだった。沿岸警備隊(コーストガード)のオフイスの前では手をふりながら、景気よく沖へ出て行った。

              港の中と違い、沖は太平洋である。家何軒分か位の大きさの波がたっている。しかし、波と波の間には波がない、というかうねりが盛大なだけで、あとは実にスムーズである。目が慣れれば,なんということはない。一応、救命胴衣は付けている。舟が沈めばハッチの蓋でももって、しばらく泳いでいれば、あたりはにぎやかなヨットハーバーだ。誰かが救ってくれるだろう。そんなことでエンジンを切った。恐る恐る、帆綱を引いてみた。けっこう怖かった。だんだん帆がマストに上がっていく。そして一番上まで上がった。そう思ったら、舟がグーと右に傾いた。「さてどうするべえか」という余裕も無く、自分は舵にとりついた。舟を正面に向け、ブーム (三角帆の下の横木) の縄を引いた。なんということはない。舟は静かに音も無く、前進をはじめていた。

              その日、一、二時間海の上にいたが、自分はだいたいヨットというものの理屈がわかったような気がした。別に級友の助けはいらなかった。自分で帆を使って港に帰って来た。そして舟をトレーラーに乗せ無事に家に帰って来た。それだけの事だった。舟は自分の思う方向に、風だけで十分動いた。海風と太陽で体がほてっていたが、初乗りは実に楽しかった。エンジン無しで風だけで走るのはたいへん気持よかった。波を切る音だけが聞こえた。コーストガードのお世話にもならなかった。 勿論難点はいろいろあった。一枚10ドルくらいの木綿の作業用シートは布が伸び、一回で駄目になっていた。中古の帆を売る店にでも行き、本物のダクロン製の帆を買うより仕方ないようだった。舟体には問題はなかった。壊れている所もなかったし、無事帰還したわけだ。本物の帆を使うなら、正式のシートトラベラーも付けないといけないのがわかった。舵とキールの大きさは適当だった。

              自分のヨット歴はそんなところからはじまった。中年の頃、実際は別の仕事をしていたのだが、もし機会があれば、ヨット会社のデザイナーをやってもいいかと思っていた。量産のヨットを見るたびにその不備が気になった。40フィート、50フィートのヨットでも、走っているときは良いのだが、寄港したときの居住性が悪い。クジラの背中に乗っているようなもので、そのしっぽあたりにあるコックピットで夕食に友人達をよぼうとしても、せまい。モーターのついたクルーザーとくらべて、値段の高い割には、使い道が限られている。これはデザインの不足のせいだといつも思っていた。いろいろ湧いてくるアイデアの捨て場に困っていた。

              どこかで聞いた事のある表現で、「舟を作っているひとは,自殺しない」というのがあった。舟を作っているときは、次は何をしよう、これはどう解決しようとプランに忙しく、世の中の大問題を一人で悩んだり、嘆き苦しんでいる暇等ないわけだ。あくまで単純あたまで能動的である。気楽なものである。人々のよく悩む人間関係などどうでもいい。じぶんの本業のアートなどもどうでもよくなる。疲れはてて夜はよく眠れる。労働者の幸福である。日々、忙しく、あひるのように理屈も無く幸福なのだろう。