舟はセルフビルド  2     (パンプキン ボート)

 

 

走辺憲史

 

              昔の話であるが、まあ、書いておこう。大学を卒業して最初の仕事はロスアンゼルス郊外の大学の美術教師だった。フルタイムの仕事でも毎日出勤というわけでもなかったので、暇と言えば暇だった。それに広い工場跡をスタジオに借りていたのでスペースはいくらでもあった。ある日思いつき、ベッドを置いていない方の部屋で舟を作る事にした。前の14フィートのヨットのように木を使わないで全部グラスファイバーでいこうと思った。凹型のモールドは大変そうだったので、凸型のモールド(鋳型)にする事にした。くず木でざっと舟の形をつくり、それに金網を被せた。丁度鳥小屋につかうぐらいの安い金網である。それでなんとなく舟の形とした。長さは25フィート位だったか。その金網の上に石膏に浸したぼろ切れを置いて行く。石膏が乾いたらサンダーで削って仕上げをして表面を滑らかにする。最後にその凸型の上にレズン(樹脂)に浸したグラスファイバーを4、5層だったかかけていった。後は中身を抜けば舟が残るわけだ。モールドの石膏の部分はゴミ箱に捨てた。くず木は燃やしてキャンプファイアーをやろうと思い、学校の学生達を沢山あつめてきて夕方からパーテイをした。ビールを飲んで騒いでいたらパトカーが二台くらい来て注意された。町中でおおきな焚き火はいかんぜ、ということらしかった。「はいもうすぐやめます」といって引き取っていただいた。

              はじめはトライマラン(三つの舟の連続したもの)を考えた。中の舟から両側にパンツーンが出るわけである。アウトリガーともいう。二本の竿の先にフロートがつくあの形である。マストの前後の二枚の帆で走る。海岸に突っ込めるように舟の下のキールは引き上げ可能にしておいた。ポリネシアあたりの舟の要領である。それで二月くらいで全部できた。アルミのマスト及びリッギングは高価なので、それはまたまた積層の木で間に合わせた。どうも安い方に安い方に流れる傾向があった。中古のかなりヘビーなボートトレーラーを買ってきて乗せた。悪くはない。前のときと同じように、マリナ デルレイで、一人で進水式をした。

              外洋に出てみた。太平洋である。テストをしたのであるが全然成績はよくなかった。映画で見るとポリネシアのアウトリガーはしなやかに優美に走っているが、自分のは全然ちがっていた。舟の両側に出ているアウトリガーの部分が潮水をはねとばし、まるで雨のように中央に降ってきた。少なくてもこの海域では波をはねとばすようだった。まあ、もっと早く言うと失敗作である。それで外洋に出るのはだんだんやらなくなり、港に泊めたまま、別荘のように使う事にした。どうせならここに住んでみるのも悪くないかと、広い床を付け部屋らしき覆いも付けた。ボートは成長するもので、その課程のひとつであった。トライマランは何しろ幅があるので床を付ければ、結構何畳敷きかになる。       

              美術教師の職はたのしかったのであるが、自分の興味がすこし移っていた。キャンバスに絵を画くというのから、広い地面に描く方が面白いのではないかと思い始めていたのである。

そういったものをアーテスト達は、コンセプチュアル アートとか、サイトアートとか呼んでいたが、自分はくくり方を変えて、ランドスケープ アーキテクチャーではないかと思い始めていた。そういえばランドスケープはなぜか、芸術家から見放されている部門ではないかと思えた。ただ普通のサイトアートと違って、ランドスケープアーキテクチャーはそれなりの学習とか必要なようであった。二年間で大学教師をやめ、二度目の大学院へと帰っていった。そちらの方を勉強する事にしたためである。今度はカリフォルニア大学である。

              しかし便利な事に学校から15分くらいのところのマリナに自分のボートがすでにあったのである。住めるくらいの大きな舟にしてしまった。台所、電話は舟にあり、シャワーはクラブハウスにあった。家賃は係留費だけでアパートを借りるのに比べるとずいぶん安かった。ボートは知人達に解放していて鍵もなかったから、家に帰ったら知らない人が住んでいたりした。時には運良く、すてきな美人が中で一人で遊んでいたりした。「イギリスから来たのよ」とかいっていた。勿論全然知らない人だった。学校に自分一人の研究室みたいなものがあり、時々はそちらに泊まったりしていたが、ボートでも週の半分以上は生活していた。水の上で寝るのはウオーターベッドのようなもので、うまく熟睡できた。なにやら毎日パーテイみたいなもので気楽な独身生活を送っていた。ボートを留めているところの入り口のゲートの側が海の見える大きなレストランであった。時には着替えてそこにもいった。

              アパートと違い、家賃があまり気にならない生活というのはいいものであった。毎日水の上でぷかぷかしていたわけだ。トライマランはその後もなんどか形をかえた。それでもまた次のアイデアがわいてきて大改造する事にした。アウトリガーの外側にもう二つ30フィート位の舟を繫ぎ三連の舟ではなくて、五連にしてやろうと思った。ペンタマランというのは見た事無いからいいだろうと思った。それで結局それをやったのである。デザイン学部の学生達がたくさんそのあたりにいたから、変化のたびに来てくれて手伝ってくれた。舟の上の住居部の組み立てをてつだってくれたり、何度目かの進水式にも来てくれた。おかげで、みんな自分たちがボートのオーナーであるかのように思い、共同体のものみたいだった。シエアーハウスである。海の上での人間関係は陸上のものとすこしばかり違うのではないかと思えたりした。誰が誰でもよかったし、人はみんな違うものだし、なにやら芋を洗うような気楽な関係がそこにあったとおもう。

              この海上の遊びグループをやっていた頃は、教師時代と違いもう給料はなかった。またも学生生活であったから、舟の改造の材料はロスアンゼルスの町を拾い歩き、不要品をリサイクルして作ろうとした。道路を走り回って、要らないパレット等を沢山拾ってきて、それのサイズから舟を設計した。都市の廃品をボートにしたのだ。それで大型ボートを作るのにペンタマランはぴったりだった。サイズ的にも手で作れるサイズに限定して多くのパーツを作ったわけだ。キャビン部分もドーム状とした。これもパレットサイズの木で沢山の三角形のパネルを作り、あとは海の上で組めば径20フィートのドームが出来上がるわけだ。廃材でつくったようなボートが浮かぶのかと疑われるかもしれないが、それでもちゃんと浮かぶのだった。

           その後少しばかり時がすぎ、ランドスケープというのも少しわかってきた。しかしそれは始めの予想、或いは期待とずいぶん違っていて、会計士とか、なんとか鑑定士のように、人に雇われて、顧客の金であれこれデザインをするという、いわばサービス産業であった。つまり、主催者は自分ではないのであって、主催者は土地、不動産、あるいはそれらをもつ会社等の管理職等であった。かれらは素人である。素人が何らかの思い込みを持ち込み、こんどの新社屋はランドスケープの立派なものにしたい。予算はどの位見積もれば良いのかとかいってくるわけだ。ただ幸運な事にあらためて、就職した設計事務所は小さめのオフイスであったが、知名度があり国際的なプロジェクトも抱えていた。当時中東でもあれこれやっていたし、国内でも大学のキャンパス計画等多くかかえていた。そんなところから別のキャリアがはじまっていた。

              ペンタマランはしばらく後に、設計事務所で働いていた同僚に安く譲った。次のボートの計画がたくさんあり、それらのボートの材料費が少しでも出ればと思ったのだ。ボートも出来てしまえば、すぐに飽きてしまうというか、興味をすぐに失ってしまうようだった。ただ次のボートに取りかかる前に結婚するという事情がおき、なにやらそれどころでは無くなっていた。時間的に言うと結婚したあともしばらくボートはあったのであるが、次のボートにとりかかるタイミングがなにやら外れたようであった。