シンプル ライフ(山に入る)

 

走辺憲史

 

              柳田邦男が大正六年に「山人考」という講演手記を書いた。その後、それが大正15年に「山の人生」という153ページばかりのエッセイとなったようだ。村での生活が成り立たなくなったり、生活苦から山にはいる。あるいは精神病になったり、何らかの病を得て、望みを失い身の捨て場として山に分け入る。また、貧苦から若い者に所帯をゆずり、老躯を山にはこんでみたりする。アルツハイマーでの徘徊も多かったかもしれない。また何らかの罪を負い、不義理を重ね、現世で住み難くなる。しかし、寺に入ったりという遁世のための資産、資格の無い庶民は多かっただろう。死を選ぶつもりで山に分け入る、しかし、死ぬ事も無く生き延びてみたりする。

いろいろな理由、原因で山に入りそこで人生を終えた人々がいた。そういった脱落した人々、里での生活を追われた者達も、考えてみれば結構多かったかもしれない。彼らの多くは身一つで、何の準備も無く、生活道具、防寒具、狩猟のためのあれこれ、斧一つ、刃物一つ、ろうそくとかマッチひとつもたないで、ただ、思い立つまま、山に入っていったようだ。尾州のある百姓の妻が産後に発狂して、山に入り18年を経て帰ってきた。裸形で腰の周りに草の葉をまとっていたという。はじめは虫を捕って食っていたが、後には狐、狸を裂いて食い、そのうち寒いとも、物欲しいとも思わなくなったという。また、明治の末頃、作州でそういった女の一人が木こりの小屋を覗いているのを見つけられ、山姥という外見であったためか、人夫達に打ち殺されたという。

これらの場合新規の山人は、生まれたときから山の生活を知り、そのための知恵を身につけていた原日本人とか、かっての縄文人等と比べて実に分が悪い。山の中で何が食えるのか、何が貯蔵出来るのか、どう蓄えるのか。火はどうしておこすのか。そういった知識の積み重ねがないわけだ。火を使わないで、生で食えるものといったらどんな物があるのだろうか。[山人考]はそういった世捨て人、脱落者達の、研究というより、ルポ、聴き集めである。

柳田は、子供や、娘達の神隠し、山の神にさらわれた事件やら、人さらい、たぬき、きつねに化かされたケースやら、日本全国にわたり、この村でこういった事件があった、言い伝えがあった、といった事も含めて、ケース毎にたいへん詳しく調べている。それも日本列島、北から南の沖縄までである。岐阜県瀬戸町の感化院にいた少年の一人は山窩の子で足柄で親に捨てられ、名古屋まで山伝いにきて警察の保護を受けた。山窩は概して家をもたず、季節によれば暖かい地方へと移動していたという。山窩には獣道のように、人に会わないように移動のあとがわかりぬくい特別のルートをもっていたという。別の少年は父と二人でどこか深山に住んでいた。三年の間火は使わず、何もかも生で食べた。春には木の芽を食べ、冬は草の根を掘って食べた。それでも、なかにはうまいものもあったそうだ。衣服は小動物の皮を着ていた。

木地師、木こり、炭焼き、祈祷師、山伏、宗教者、その他の元々山を職業の場としていて、里に下りる事をしなくなった人々もいた。また、長い歴史の中で、元々の日本原住民が、里人とは関わらないように身を隠して住み続けているものもある。または海難事故での漂流民が、つまり外国人が里の人々との交流の無いところでの生活を強いられたもの。理由はいろいろあれど、里の人々から、天狗といわれたり、山姥といわれたりして、ほとんど見えないところで生活をたてていたひとびともいた。彼らは精神病者などとちがい、山での生活術を心得ていた人々である。例えば猟師なら、熊をとり、その肉は食い、皮とか干したら売れる内蔵とかを里で売り、穀物を買い、火を使う煮炊きも出来る人々であった。そして、選べば、里に下りて、そこでの生業も可能な人々であった。そういったいわば山住まいのプロ達は別として、着の身着のままで、ふらりと山に入っていった世捨て人、脱落者の生活というのはどうも気になる。火を使わず、人は虫やカエル、沢ガニだけを食っていくだけで、生き延びられるものだろうか。夜のさむさ、冬の寒さはどう防ぐのだろうか。結局、山で彷徨していた多くは死に、ほんの少しばかりが偶然生き残ったということなのだろうか。

自分が子供の頃、山に行けば、何か喰えるものはあった。自生のグミはおいしかったし、椎の実は皮を吐き出せば、そのまま喰えた。ドングリはそのままで喰えるものではないが、いくらでも落ちていた。酸い葉という草は、茎の中に空洞があり、かじれば水気が多く乾きが止まった。耕作地から外れた山の中でも、栗の木が生えていたり、秋には松の木の下に松茸が輪になって生えていた。本州の深山で渓流が流れているようなところでも、しかし、素手で川魚等とれるものではないだろう。気のふれた女が一人で山にさまよい入った場合、いったい何が常食となりうるのか。

              趣味として山登りをする人達の登山記などをよく読む。自分で登るのは実に大変な事だが、暖かい部屋でそういった物を読むのはらくだし、よい気分転換となる。岡田喜秋という人が奥羽山脈の八幡平あたりで一人で秘湯探検をしたという記録がある。滝の上温泉へと登山ルートを地図で決めて行ったところマムシの多い沢に出た。三匹のマムシにとぐろをまかれたという怖い経験をした。そこはマムシの生息地として地域では有名なところで、ある名人は日に25匹も捕まえると書いてある。面白いのは最初の一匹だけは売らずに、自分で食べるのを習慣としているという。メキシコ人も田舎の方の人間は結構、蛇も常食としているらしい。毒蛇は穫るのに技術がいるだろうが、普通の蛇なら、女でも穫れるだろう。メキシコでは穫った後、頭を落として血を抜き、ひもで結んで軒下につるしておくそうだ。そのうちよく乾けば、丸切りして、シチューなどに入れるそうだ。臭みもなく白身の上品な味だと言う。

              地図でみればカリフォルニア州のど真ん中あたりに、誰も行かない、カリフォルニア ホットスプリングという温泉がある。ベーカースフィールド市から二時間ばかり山の中に入ったところにある。セコイア ナショナルパークの側だ。温泉といっても山間にきれいな川が流れていて、その川に湯気の出る熱い小滝がながれこんでいたりする。木こりの小屋みたいな家が10軒くらいある。それだけだ。温泉芸者もいないし、ツンテンテンと三味の音もない。どてらの湯治客などだれもいない。街灯等などないから夜は真っ暗で星がよく見える。西部劇のゴーストタウンみたいだ。まあ、さびしいところである。昔、誰かが客を呼ぼうと作ったコンクリプールの跡がある。ただ、湯は実に透明でつるつるしていて、すごく暖まる名湯である。そのまま飲んでも癖が何にも無くおいしい。冷えても店で売っているボトルウォーターよりよほどよい。

              この温泉の峡谷の石は畳十畳位なものがごろごろしている。それらの石をよく見ると所々のくぼみにあきらかに人の手で丸くなったような、すり鉢ていどの穴があいている。昔このあたりにインデアンがたくさん住み、生活を成り立たせていたようだ。オークツリーゾーンの上限で、ここから上は松とか、セコイアの林となる。オークは何百キロにわたって自生している。その下は時には歩きぬくいほど、ドングリが落ちる。これを粉にして、川で渋抜きすれば大変な量の食料だ。ドングリがあればリスが多く、これを捕まえる技術があれば、肉にも困らない。ほかは熊が多いが、鹿はみた事が無い。熊は銃が無くても、囮を作る事を知っていれば、穫れない事はないだろう。こんなところならもしかしたら、自分でもサーバイバル出来ない事も無いだろうと想像してみる。一日の終わりには川の側に石を集めて、毎日風呂に入ろうとかアホな事を考えてみる。

 

           今の日本からは想像もできないが、縄文後期の日本の人口は75万人くらいだったという推定がある。今、富士山に登ったら、前も後ろも人、人、人、でデパートのセールの日のエスカレーターと同じようであるらしい。見苦しいことである。入山規制もしていないのだ。昔、日本全国、75万人の頃は富士山という変な名前もなかった。これは英訳すると「リッチマンの山」となるのだろうか。かっての深山には野生動物も沢山いただろうし、全国に豊かな樹林がひろがっていたわけだ。椎の木等も珍しくも何ともなかったかもしれない。気がふれた妊婦が、あるいはアルツハイマーの老人が山の中で死ぬにしろ、少なくともそこの景色は豊かだったのだろう。