シンプル ライフ(比較宗教学)

 

走辺憲史

 

              宗教学とか、比較宗教学というのがある。普通の大学でもそんな学科があったりする。その上、比較宗教学の博士などというのがあったりする。宗教というのは信じたり、ただ頭を下げたりするもので、研究の対象にして、あれこれ言う物ではないのではないかと思うが、あれこれ言いたい人々がいるわけだ。そしてあれこれ言うとき、その宗教の信者である場合と、部外者である事がある。部外者である場合、酒を飲まない人が、酒を飲む人を不思議がるように、理解の重なりようのない状況にもなるだろう。そのうえ宗教談義は、性質上どちらに向かって言葉を発しても、なにやら具合の悪い事になりかねない。ほんの小さな宗教団体、イワシの頭を崇拝しているグループにむかっても、イワシの頭はみそ汁の出汁に大変よいものだなどとはいいにくい。

              現実としての、宗教というのは大きな政治団体であったり、産業であったりする。中世のキリスト教会は免罪符といった物を発売した。ここで金を払えばあなたの罪は来世でまぬがれるというやつだ。多くの宗教が来世の話をしたがるが、これは飛んでいない飛行機の切符を売るような物で、危険きわまりない。詐欺、欺瞞のまわりをうろつく事になる。勿論、どの宗教の教祖も、何らかの救済を語ったりしたのかもしれないが、彼らの後に出てきた救済産業の事までは与り知らぬ事だろう。

日蓮、空海、親鸞、などの僧侶も、悪意、善意にかかわらず、そういったボーダーラインをうろついた。宗祖である仏陀の場合は来世について「まだ死後には行った事無いから、そんな事はしらん。」という明快さがあったという。宗教人だけでなく、宗教産業人として、ザルツブルグ(塩の村/森、現オーストリア)の司教などはしたたかであったようで、町の丘の上に城を持ち、領主として特産品の岩塩の利益だけでは足りなくて、宗教も牛耳り、富、この世の権力、あの世の権力を同時にものにしていたという。14世紀から18世紀まで、400年間この司教の国は独立国であったという。

              宗教学とかに関わり無いところで、芥川龍之介に[西方の人]という著作がある。西方の人とは勿論、ヘスース クリスト(ジーザス クライストは英語読み)のことで、これはエスプリというか、ウイットというか、機知をもって、あれこれ言いたい事を書き綴ったものだ。

              ———日本に生まれた「わたしのクリスト」はガリラヤ湖を見ていない.わたしは唯わたしの感じたとおりに「私のクリスト」を記すのである。厳めしいクリスト教徒も売文の徒(芥川)のクリストはおおめにみてくれるであろう、といった書きはじめである。クリスト教はクリスト自身も実行する事の出来なかった逆説の多い詩的宗教である、彼の道はただ詩的に、明日の日を思い煩わずに生活しろという事に存している。何のために、それは勿論ユダヤ人達の天国にはいるために違いなかった。クリストが説いたのは、天上の神である。クリストは勿論目のあたりに度々この神を見たであろう。キリストはこの神のために戦い続けた。(芥川竜之介)

              芥川もキリスト教の教祖がどんな人物であったか興味を持った訳だ。聖書の一字一句を神のメッセージとして、崇拝するというのは現代人である芥川には無理で、古代詩と受け止めている。そして、救済を歌った宗教にたいして、「ユダヤ人の天国」と厳しさを言外に匂わせている。

             

              同じような事を、自身がキリスト教徒の佐藤優がもっと適切に書いているようだ。

              ———ところで、イエス自身はキリスト教という宗教を創設したとは考えていなかった。あくまでも自らはユダヤ教徒であると考えていた。それからイエスは高度の知識人ではない。教養の水準は当時の中の上くらいである。ただ自らを神の子であると考えた。このイエスの思い込みからキリスト教を形成したのがパウロである。パウロは生前のキリストと一度も会った事が無い。そもそもキリスト教は起源がそうとうあやしい宗教である。一世紀にイエスという男がいた事を客観的に証明する事が出来ないという結論がでた。教祖の歴史的実在がきわめて怪しい宗教なのである。筆者は勿論キリスト教徒であるので、キリストが歴史的に実在したと信じている。しかし、信じる事と、イエスの実在を確定する事は範疇を異にする問題だ。

                                                                                      (抜き書きー保守再建−5、諸君3月号、2008より)

             

              なぜこういった、自分が知りもしない事を、宗教の話を、ここに書き始めたかというと、それは和辻哲郎の「孔子」を近頃読んだからである。これは面白い本であった。ここで和辻は人類の教師となったような孔子、仏陀、キリスト等の形成という事をテーマとしている。成り立ちに対する興味である。つまり、比較宗教ではなくて、比較哲人である。孔子、仏陀、キリスト、など実際にいたのかいなかったのかというより、後世が、幾世代かたった後も、彼らの事を造成し続け、そこに哲人が生まれたということで、いわば、後世の皆さんの趣味、偏り、愛情によりどんどん出来ていった、珊瑚のような物だといっている。つまり、もともとの中身/コアは石でも、豆腐でもなんでもよかったわけだ。(和辻はそこまでは言っていないのであるが)キリストについても、まあ、そんな人はいなかったのではないかと言っている。大変おもしろい。一世紀の頃のローマ史にも、ユダヤ史にも多くの他人のイエスは出てきても、ナザレのイエスが磔刑に処されたとはでていないのだそうだ。

              ———民間信仰のイエス バラバの祭儀で仮装の王がロバに乗って入場し最後に十字架にかけられる。かかる祭儀がイエスの最後の物語の粉本なのである。十字架の死そのものも、異教の密議の中心であった。ヘレニスト時代に西アジアやエジプトで行われた様々な、救世主の密儀においては、救い主はみんな十字架にかけられたのである。それが死んで蘇る神の定石であった。(抜き書き)       

             

              こうして和辻の記述は沢山の事項をあげ続くのであるが、自分が知らなかっただけで、世間の人々は結構みんな知っている事かもしれない。孔子だってそうであるが、仏陀などは実に雲の向こうの話で、仏陀にまつわる話も多くが後世に誰かにより、制作されたといっている。まあ、そんなものなのでしょう。つまり、珊瑚のようなものなのでしょう。ウイキペデイアの辞書のようなもので、誰が書き加えてもよいという、オープンブックであり、オープンフォーラムであるわけだ。

             

              今度みんなで集まって、あたらしい仏典でも書きますか。文字でなくともグラフィックでもかまいません。たどりようの無い迷路を描き、新曼荼羅もつくりましょう。太陽系の外も描きましょう。