投げ入れ1

シンプル ライフ(投げ入れ その 1

 

走辺憲史

 

              投げ入れと言っても、バスケットボールとかの話題ではない。茶花の事である。生け花は普通、人に見せる物だから、どうしてもある程度は見栄えの競争となる。見せ物である。そういった技の競技は茶席に置いては、じゃまになる。利休は、茶花は「野にあるように」といったそうである。つまり、くちくち、つつかずに、投げていれたくらいで丁度いいのよ、ということになる。

             

              茶は、宗匠制度などのせいで習い事と心得ている人たちが結構いる。宗匠、家元等も勿論そう思っている。しかし、元々を考えてみれば、それは人を招くだけの会席であり、手足の上げ下げまで習わないと、人を呼べないというものでもあるまい。茶も時間とともに煩瑣になり過ぎ、頽廃した。例えてみれば「爪切り道」というのがあり、足の指はここからこういうふうに切り始め、次の指は小指をこうあげて、懐紙にこう落とすものだ、とか言う「道」を始めたやつがあれば、人に笑われる。茶をのむだけなら、我々は日常やっている。口を開けて流し込めばいいだけの事だ。

              また、茶は一生をかけての修行などというが、たかが人を招いての集いに、作法を何年もかけて修行するというのはばかげている。人の一生のじかんはもっともっと大切なものだ。些細なパーフォーマンスを見せるために、師匠の動きを時間をかけて習得するというのはくだらない。生きるという事はそんなことではない。茶会の客となるために、何年も修行をするというのも実に迷惑な話である。茶会への招待を迷惑と思われるのも、茶人達がなんと言おうと、何かを取り違えているからであろう。

              昨日、外国から来たばかりの作法を知らぬ外交の相手や、貴人達を茶でもてなし、興味をもって飲んでくれたというだけで、悦に入っている茶人達はやはりどこかおかしい。日本の精神を理解していただいたなどという。見苦しい事である。相手が日本人であれば、なんだ、あいつは茶碗をまわさずに飲みおった。「作法の無い事じゃ」と蔑むか、笑うのと同じ人たちなのである。外人に許される、作法を心得ないという事が、なぜ日本人に許されないのか。信長に、抱えの茶人が「作法がちがいまっせ」と言えば、首をチョんと落とされるのは茶人の方であろう。そういった様子の相手を見るというか、階級差別をしておいて、何がマナーであろうか。

              茶を「作法」として押し付けるのは、もう卒業しなくてはいけない。作法も時代とともにかわらなくてはいけない。今の日本人はもう何時間も正座など出来ないのではないか。自分が正座出来るからと、他人に押し付けるのは作法ではない。老人にも、若い者にも、正座は骨にきつい。茶も、人が足で歩く畳の上に茶碗を置き、くりくり混ぜて、茶を点て、客に畳の上からそれを取り上げて飲ませるのも妙である。どうにかならないものか。もっと、まずいのは濃い茶の廻しのみである。楽焼きの茶碗等は釉薬がびっしりかかっているものではないから、いわば、気孔だらけの泥茶碗である。その穴に入っているばい菌はいくら煮沸してもとれるものではない。そんな器を廻し飲みするのは不衛生である。また人々の口はばい菌の倉庫である。イボラ菌も人の体液より拡散する。知らない老人の後をのまされるのは誰でもおっくうであろう。若い娘なら、何の因果でこの年寄りの触れた茶碗に間接キスをしなくてはいけないのかとふるえるであろう。あの唇の後にまた触れなくてはいけないかと気が狂うであろう。

             

              こうして、自分は儀式としての茶には何の同情も持てないのであるが、意識としての茶には大変興味がある。建築、庭、料理、衣装、動き、など、全部で総合芸術、マルチメデイアを何百年のむかしからやっているのは魅力である。それも禅の影響で、接待の前に、生活態度を検討する事から考えたというのは、洗練のはじまりであった。結果として人を招くにつき、贅ではなくて美をもってしたいという事からはじまった。美も多方向のものなので、騒がしいのや、血の踊るようなのや、性のほとばしり見たいなものや、いろいろある。いろいろあるけれど、もっとも静的な、簡素、質素に、目を向けるような、禅的趣味が主調をなしてきた。

              禅はまた、結構な事に、死んだロバのような退屈な物ではなく、機知を大切とした。つまり、きまりきった、作法とか、手順とか、決まり事を軽蔑する精神もそこには含まれていた。乱調なしにどこに美があるか、アートがあるかというわけだ。茶は死人の葬式ではないのだ。生きている人々の、機知をもった集いなのだ。茶の宗匠なら、基礎をまずふまえた上で、「おはずしになたら」などというだろうが、茶碗の選び方に基礎等あるものか。茶掛けの選び方に基礎なんぞあってたまるか。と、思います。つまり、茶を教えたがる精神を軽蔑しているのだ。繰り返すと、アーテストに筆はこう持ちます、筆はまずこのあたりを軽く撫ぜて、そのあとできっちり、絵の具はこのあたりの3分めあたりに載せすぎないように載せます、とか言う奴がいたら、あほかと、自分なら、その脇腹を大きめのドスで深く刺し殺してやる。と、思います。自分は何しろ、習い事拒否症なのだ。

              茶席で床の間にかざられる茶掛けは、その茶会のテーマを示すものといわれる。つまり一点の墨跡、あるいはアート等を主体とした集いなのである。美術鑑賞会なのだ。西洋の美術館のような、無粋に美術品の大倉庫に人を集めて、「さあ、見なはれ」ではなくて、たった一点のアートために祝賀会をして、少々の酒、料理、茶、を振る舞うのが主目的なのだ。外国人になぜ日本には昔から美術館がなかったのかと笑われたら、「いいのよ、日本には昔から、茶というものがあったのよ」といえばよいわけだ。西洋のように、倉庫の物を全部見ていきなさいという乱暴さというか、無作法さがなかっただけのことよ、と言えばいいのだ。

              そう言う事である以上、茶席に作法は要らない。ともに楽しもうという、招待者にそった心を持つ客達であればよいのだ。アートも作品によれば、茶ではなく、ウオッカ、ワイン、焼酎のほうがあうかもしれない。懐石ではあわなくて、メキシコ料理となるかもしれない。メキシコのアートを理解しようとおもえば、ぜひテキーラは飲まなくてはならない。里芋の煮たのを皿の上に一つ載せた、けちな懐石料理では、場がぶちこわしとなる。そこは亭主の心がけという事になる。

 

              前置きの方が長くなったが、「投げ入れ」という事がテーマである。茶席での「花」はあくまで、目立たぬ添え役である。主役を喰ってはいけないのだ。茶掛けがか細き色町の太夫であれば、真っ赤な「カンナ」では困るのだ。黄色の、大きなたらいのような「ひまわり」でもそぐわないのだ。やはり、野の花だ。

              なぜ、「茶花」についてこんなおとなしく殊勝なことを書いているかというと、実は自分のやる茶花は、全然そうではないのだ。「投げ入れなんかつまらない」と本音では思っているのだ。「素直は退屈のはじめ」と思っているのかもしれない。かといって、茶花の方を「茶掛け」より目立たせようとかは全然思っていない。だが、茶花も、そこに参加してる以上は、何か秘めたパワーがあってもよろしいのではと思っている。脇役はキャラクター無しでもいいとは思っていない。つまり、何かを仕込みたい、投げ入れにはなりようが無い、ということを考えている。

              話が少し、ややこしくなってきたか。そうなのよ。素直の反対は、「素直でない、」なのよ。「投げ入れ」はただの村娘が茶席に、ほのぼのと座っているという風情かもしれない。村娘は村娘だからかわいい。それはそれでよい。しかし、そこに潜ませているのがほんとうの村娘ではなくて、実は大変な娘であったらどうだろうか、といった疑問なのだ。村娘の格好をした、非村娘を考えているのだ。それは尖端の科学者であったり、世界の戦闘の調停人であったりとか。面白そうか。まあ。そんなにおおげさでなくても、「ひとひねり」という事を考えている。茶花にアート性を求めるとすると、田舎娘のままではいけないのだ。かといって、溶接した鉄くずで花を思わせるとかいったことは考えてはいない。あくまで、なまの草木を使ってという事を考えている。

 

              ま、そういった意識の事を考えているわけです。しかし、言うのはそんなに難しくなくても、

実践はまた別で、「投げ入れ」を気取りつつも、「投げ入れ」ではないというのは結構難しい。

森から苔を穫ってきて、ああでもない、こうでもないと、やっています。今度は写真も入れる事にします。