シンプルライフ   (茶掛け-1

 

走辺憲史

 

 

 

              投入れーその4において、心の簡素化ということについて書いてみた。その際、禅のほうでいう悟りというのはいったい何の事だろうかと疑問を呈した。司馬遼太郎もかなり疑問に思っているのか次のように述べている。抜き書きしてみる。

             

              儒教には神はない。神にかわる至高のものとしては聖人があるだけである。肉体をもった歴史上の人物から昇華させて抽象的存在に高めてしまった。これに似たものとして、仏教には法身とか、真如とかある。釈迦はナマ身ではなくて不滅の理法法身とされたのである。他のナマ身の人間でも法を得て解脱すればー法身になるうるわけだ。真言密教におけるー即身成仏がそれであり、禅におけるサトリもそうで、ナマ身が法身になってしまう。悟る等は何億人に一人という天才の道だが不可能な事ではないらしい。禅ならば、自分一人が透明化してきっとすゞやかであるに違いない。(耽羅紀行街道をゆくー28より)

             

              ここでは悟りに対して、司馬遼太郎はあんまり同情的ではない雰囲気を感じてしまう。一人の個人のさとりが、何か世のためになるだろうという期待はないようだ。禅寺のすゞやかさはいろいろ聞くけれど、一人すずやかなのもそれでどうしたという疑問が残る。禅寺がキリスト教教会のように世のためにこういった行動をしたというのは歴史上あまり聞かない。すくなくとも何らかの慈善団体ではないようだ。人の作った飯は貰って喰うけれど、自分たちは生産には加わっていない。生産は自分達を喰わせるだけの事でも、欲の世界の仕業なのだろうか。禅と生産とはいったいどういう関係になっているのか「生産」は坊主の手を染める事ではないのか。禅院は自助の世界ではないのだろうか。西洋の修道院の修行僧は農園で働き、己の食い物ぐらい作っている様子ではないか。そのあたりもよくわからない。

              茶の説明では、空腹をごまかすため、懐に暖めた石をいれたという由来により「懐石」という言葉があるとか言う。なにやら格好よいことをいっているようだ。しかし、この場合空腹といっても社会性が全然ない、世間の子供たちの空腹ではなくて、大の男が自分の空腹をこらえようとしているだけのようだ。すこしおかしくないか。健康な成人男子が生産に携わる事を考えていないのなら、空腹が結果となるのは当然ではないか。道元は司馬遼太郎に賛成するのか、いたずらに(見性ー悟り)を追い求めなくても、座禅そのものが仏性であるとかいったそうである。司馬遼太郎の言う何億人に一人という天才の道でしかないのを認めているようでもある。それに悟りの本質も一時性のものではなく、上には上があるから終生座禅をするように言ったそうである。しかし座禅そのものがすでに「仏性」であるというのもすこし度が過ぎていないか。勝手な言い分かもしれないのだ。

             

              なぜ、書き始めから悟りの話になったかというと、今、茶掛けについて書きたいと思っているからである。昔から茶席では禅坊主の墨跡を第一に尊んだという事である。禅坊主の墨跡を尊ぶ心は、禅坊主その者に対する尊敬からくるわけだろう。昔、人は他者を尊敬するのが現代よりもっともっと簡単だったようだ。親鸞を上人と呼び、空海をお大師様とよび、多くの禅坊主達が同じように上人並の扱いを受けた。しかし現代人は昔の時代のように素直に人という物に惚れ込み、上人とするのはなかなか難しいようだ。理由は簡単である。人は雑で重層な生き物である。勿論上人の部分もあるだろうけれど、単なる「すけべ」の部分も凡俗と同じようにもあるだろうと多角的に見る事が出来るようになったからである。ある人の全部が上人であるとは普通認めにくいものなのだ。疑り深い時代なのである。特別の人というのがあまり生存しにくい時代かもしれない。

              それよりも、誰かの人柄が好きで、越後の良寛さんはいい、という方がわかりやすい。仙厓も面白いやつだったし、彼の書いた物は彼の人柄を彷彿させ、座右に置きたいというほうがわかりやすい。だが普通の茶会にそうった物があまり出ることはない。骨董としても無茶苦茶に値の高いレベルにあるようだ。それでそういったものに手の届かぬ我々一般人としては、自分で何やら工夫して作る方が面白い。わざわざ、軸仕立てにしなくても、床の間に(もし床の間があればの話で)紙一枚掛けその中に、自分の気に入ったものを糊付しておけば充分茶掛けとなる。貼るのは何時か行った温泉の入場券でもよいし、汽車の切符でもよいのではないか。離婚届のコピーでも、退社願いのコピーでも、禅坊主の墨跡よりよほど迫力があるだろう。そんな生々しいのが嫌なら、お宅の猫の絵でも自分で描けばよいではないか。そういった技術が無いようなら、気に入った漫画の1ページでも剥いでくればよい。

              自分もアートの人間なので、昔から茶掛けには興味をもっていた。禅人の気品、品格等とは別世界の猥雑なる一般人であるから、勿論やることも猥雑である。それでは茶室に掛けられる第一条件に欠けると思われるのだが、そんな事を気にしていたらアートなんかやっていられるかという意見なのである。それで平気で結構たくさん茶掛けは作った。茶掛けを作った以上はついでにその前に置く「茶花」も前に申したように色々つくった。誰に見せようと言うわけでもなく色々つくった。

              現代のアーテストが茶掛け等あまり振り向かないのはそんなものを作ってもまあ、需要は無いからだろう。勿論売れもしないだろうし生活の糧等にはならないだろう。茶人達は現代は無視して、骨董のあれこれを奪い合うのに忙しがっている様子であるからだ。茶人というのは妙な人たちである。懐古クラブである。冷凍された頭脳なのだろうか。

(すみません、いつも悪口が多くて)